本書が繰り返し強調するのは、「知っているかどうか」が極めて大きな分岐点になるということである。旅行も、仕事も、人生設計も、国際的な文脈の中で起きている。だが日本では、国際ニュースは「生活と無関係なもの」として扱われがちであり、それを反映するかのように、新聞・テレビは芸能や事件の細部ばかりを追う。

著者は海外メディア、特に『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』、『エコノミスト』などを引き合いに出しながら、そうした“クオリティペーパー”がいかに政治・経済・国際情勢に重きを置いているかを示す。これらの媒体においては、国際ニュースが日常であり、読者もまたそれに対する関心を持っている。生活や政策判断に直結するからだ。日本のように、「ヒグマが街に出た」「シウマイが売り切れた」といった話題が紙面の一面を飾ることはまずない。

そしてここに、日本社会の最大の問題がある。つまり、「求められる情報」だけを供給し、「必要な情報」は脇に追いやる情報システムができあがってしまっているということだ。これは受け手の責任でもあり、送り手の責任でもある。そして、それによって最も大きな代償を払うのは、将来の日本人自身である。

本書の価値は、「世界のニュースを知るべきだ」という一般論を、実例を交えて具体的に描き出している点にある。そして、情報に対する構え方、リテラシーの欠如がいかに深刻な結果を招くかを繰り返し説いている。最後に著者は、「ぬるま湯の中のゆでガエル」になってはいけない、と警鐘を鳴らす。ゆっくりと、しかし確実に茹で上がっていくのが今の日本であるとすれば、我々に残された時間はそれほど長くないのかもしれない。

メディアと情報の問題は、教育、政治、経済と密接に絡み合っており、単純に「もっと海外ニュースを読め」と叫ぶだけでは改善しない。しかし、その最初の一歩として、「自分がどれだけ世界を知らずに生きているか」に気づくことは、決して小さくない。そうした気づきを促すための書として、本書は十分に読む価値がある。