さらに、この装置を真の意味で「お得な熱機関」として働かせるには、有利な試行だけを選んでエネルギーを回収する仕組み、いわばマクスウェルの悪魔のような選別装置が欠かせません。

しかしその選別には新たな情報取得とエネルギー支出が必須であり、結局はどこかで“支払い”が生じます。

したがって今回の実験は第二法則の抜け穴を突いたように見えても根本の収支は破綻していなかったのです。

今回の成果が照らし出すのは、確率論的熱力学における「単発事象」と「平均値」のギャップです。

熱力学第2法則はあくまで平均的な振る舞いに対して成り立つため、ミクロな単発イベントの世界ではその枠内で意外なことが起こり得る――本研究はその事実を改めて印象づけました。

また、熱ゆらぎを極限まで巧みに利用すれば、ここまで高確率に“お得”な変換を達成できるという点は非常に興味深い知見です。

総合的にはエネルギー収支の辻褄があっても、95%でタダという仕組みは工業的にも利用価値は高いはずです。

またこの知見は、生物が微視的スケールでエネルギーをやりくりする方法にも新たなヒントを与えるかもしれません。

実際、生体分子モーターなどの細胞内ナノマシンは熱ゆらぎを利用して動作していると考えられ、ランダムな揺らぎを巧みに整流することで高いエネルギー変換効率を実現している可能性があります。

今回の研究は、生命現象を含む微視的エネルギー変換の原理を深く理解するための一助となるでしょう。

さらに、この概念を人工のナノ・マイクロ機械に応用すれば、きわめて少ないエネルギーで動作する新しい「確率的熱機関」の設計につながるかもしれません。

たとえば、熱ゆらぎが豊富な環境で外部エネルギーをほぼ使わずに特定の仕事を遂行するデバイスが将来登場する可能性があります。

熱力学第2法則という不変の掟に対し、確率を武器にどこまで挑めるのか――その問いに向き合う研究は、これからも私たちに新しい驚きと理解をもたらしてくれるでしょう。