生きていると感じられる瞬間だ。アタリを感じ、竿の曲がりを見て、かかった魚をキャッチする。この工程はそれこそささやかなハンティングであり、エクスタシーがある。釣り人はみな恍惚の人々だ。
小魚が教えてくれる大きなこと
昔、ある登山家が言っていたことで、高山の高みの高みに近づいていくと、服のタグの重みすら感じるのだと聞いたことがある。その話を股語りのように上司にすると、「たぶん死に近づくことで、生きてるって実感がものすごく湧くんだろうな」との語を返された。
なるほど、確かにそうだ。ちなみにその登山家はのちに、山中で遭難死を遂げている。
それに比べるとライトゲームなどちゃちな遊びのようなものだが、確かに人里離れた海で釣りをしているときなど、凛とした心の中にアタリが響いてきたとき、ぞくぞくするような喜びがこみあげてくる。
ちょっと俗世を離れて、ちょっとした楽しみを味わうだけで、人は生の実感を得ることができるのだ。

釣りで得る「生きる喜び」
日常生活の感覚は鈍麻している。大体人間は何も感じなくなっていく。まあそのままなんとなく死ねる人生だって幸せかもしれないが、そうはいかないもので、多くの場合何かしら辛い乗り越え点があるものだ。私も一度事故で死にかけて、人生というのはどうも簡単にいかないらしいと知った。
どうも何も感じなくなってしまっているみたいだ、心が死んでいるみたいだ、感情が何ひとつ動くことがない。そんな人には、ぜひ釣りをしてみてほしい。どんな釣りとか、そんなことは問わない。
サビキ釣りでもよいし、川で鯉を狙うのもいい。釣りあげられなくても、アタリが出た瞬間に、アッと声が漏れるはずだ。自制外の感情が自然に湧出したとき、人間は生の実感を強く感じることができる。
<井上海生/TSURINEWSライター>