釣りをする理由を考えたことがあるだろうか。考えるまでもなく実感そのものだから、言葉にする必要はないかもしれない。だが私は、釣り場でふと疲れたとき、海を眺めながら「なぜ釣りをしているのか」と思うことがある。そして思うのだ。手元に伝わるアタリこそ、生の実感そのものなのだと。
(アイキャッチ画像提供:TSURINEWSライター・井上海生)
どんな釣りにも哲学はある
おそらくどんな釣りにも哲学というものがあるだろう。続けるうち、「こういうものなんだ」という物の考え方が出てくる。私は基本的にライトゲームしかしないアングラーだが、一時期SLJをやっていた頃には、ジグをジャーキングさせていること、それ自体がこの釣りのすべてなのだと悟ったものである。

ではライトゲームはどうか?不名誉にもセコ釣りとも呼ばれるこの釣りは、そう、まさしくどんな手段を尽くしても釣ることが至上命題であり、簡単なぶん、ボウズは許されないとまで言える。だが筆者個人に関していえば、別に釣った魚を持ち帰るでもない。とにかく釣ること、それだけにこだわるのだ。
しかし、それを、なぜここまで?私はもう10年近くこの釣りをしている?一体何のためだろう?
アタリで得る「生の実感」
いろいろと思うことはある。結局趣味の世界なので、それ自体がゲーム。ゲームとは、ずっとゲームを続けるためにやるものだ。だから考えちゃいけない。ただやるのみ…それが一番シンプルで健全だ。
しかしこざかしくもこの釣りに何かしら固執する自分にアイデンティティを求めようともする。そうすると、浮かび上がってきたのは、もしかするとアタリを感じる瞬間に、わずかながら「生の実感」を覚えるのではないかという答えが出てきた。
こればかりは感覚的なものなので釣りをしない人にはわからないだろうが、釣り人とは、アタリが出ると笑いが自然とこぼれる。まるで赤ん坊みたいに無邪気に。
