黒坂岳央です。
現代社会では、誰もが「自分こそが評価する側に立ちたい」という欲望を抱えている。もちろん、それ自体が問題というわけではない。多様な意見が尊重される社会において、評価の表明は自由であるべきだ。
しかし問題は、「自分もまた評価される存在である」という視点を失ったときに起こる。「あの人はダメ、この会社はなし」と言うことは容易だが、その言葉は往々にして、「あなたはどのように評価されているのか?」という問いを伴うべきだ。他人への評価が自分への評価と常に地続きであるという認識を忘れるべきではないだろう。
筆者の意見としては、評価する側より評価される側に立つポジションを目指すべきだと思っている。その方が圧倒的に得をするからだ。その論理的根拠を取り上げたい。
※タイトルに「日本は~」と入れている根拠として、日本人は「ランキング好き」「相対性への意識が強い」傾向がある研究データもあり、これは我々の実感とも一致する。

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本来、評価という行為は簡単ではない
多くの場合、評価するという行為は本来、大変むずかしい。
それは単なる好き嫌いや一時の感情で下せるものではなく、全体像を見通す力、比較対象との整合性、そして一定の知見が求められる知的行為である。
たとえばレストランを評価する際に「星3つ」と言うなら、その根拠を明示しなければ意味をなさない。「他店との相対比較」「料理、サービス、雰囲気といった構成要素の重み」「再現性のある基準」などをもとに言語化してはじめて、それは評価と呼べる。
だが、現実にはそこまで到達している人は多くない。
たとえばAmazonの商品レビューに見られる「配送が遅かったので星1つ」といった書き込みは、商品そのものの評価とは無関係な感情であり、真の意味での評価行為とは言い難い。
特に注意すべきは、「批判」の場合だ。人間関係や勤務先などに対して、強い言葉で否定的な意見を述べること自体は構わないが、その批判が一貫性と正当性を持っているかどうかを吟味する姿勢は不可欠だ。