この場合に、任那日本府というのは、朝鮮総督府のような直接的な行政機関ではない。しかし、なんらかのお目付役がいなかったと考えるのが普通ではないだろうか。現代で言えば、日本と伽耶諸国との関係は、親会社と海外で100パーセントでないが資本参加している会社のようなもので、そうした提携先を監視するために、親会社が置いている現地法人が任那日本府といったところだと思う。
また、百済から日本への文化的貢献は、中国との橋渡しだけだったのかといえば、そんなことはあり得ない。近代において、日本は中国や韓国に西洋の文物の橋渡し役をした。その場合に、そのまま右から左に流したのではなく、東洋に合うように改良したり、専門用語を漢字に直したりした。
百済経由で流れてきた文化も、中国から直輸入のものより日本人にとって消化しやすいものだったであろう。
また、日本の半島支配は、当然にそれなりの数の日本人の半島への移住や居住を伴ったし、逆に、それよりはるかに大きい数の百済人などの日本への流入をもたらした。平安時代の『新撰姓氏録』では、3割が帰化人でその主流は漢族だが、そのなかに秦氏に代表されるように百済経由の氏族が多くいるし、百済人と名乗るのもかなりの割合である。
こうした場合に、たとえば、文字を伝えた王仁博士のような百済から来た漢族をどう評価するかということもある。これは、たとえば、在日朝鮮人で日本国籍がない人がアメリカで活躍したときに、日本から来たと思われるか韓国・朝鮮人だとアメリカ人が思うかといったようなものである。
また、帰化人は重んじられ高い地位についたのは確かだが、やはり外様扱いで、トップクラスの地位につけたわけではないのも確かである。たとえば、百済王家の当主でも陸奥守あたりが限度であり、天皇の後宮に入っても皇后になれたわけではないから、日韓併合ののちに李王家が皇族扱いされたような厚遇はなかった。
そのあたり似ているのは、十字軍の時代のフランスやドイツとイタリアの関係であろう。政治的・軍事的にはフランスやドイツが有利で、イタリアの都市国家は従属的だが、ビザンツ帝国の文化を西ヨーロッパに伝える橋渡し役をし、また、イタリア人たちは各国の宮廷で活躍したし、その際に、イタリア的な味付けも加えた。こうした関係に似ていると思う。