世界各地のピラミッド:多様な目的と独自のスタイル
中央アメリカでは、マヤやアステカといった文化が階段ピラミッドを墓としてではなく、儀式の舞台として建設した。神々への捧げものや行列が行われ、頂上には神殿が鎮座した。エジプトの封印されたピラミッドとは異なり、これらは登るために設計されていたのだ。北米最大のピラミッドの一つは、メキシコのプエブラにあるチョルーラの大ピラミッドである。

アフリカでは、エジプトの南、現在のスーダンにあたる地域で、クシュ王国がメロエやナパタ近郊の砂漠に何百もの小さく細長いヌビアのピラミッド群を築いた。これらはエジプトのものより角度が鋭く小規模だったが、王族を称え埋葬するという目的は似ていた。
そして中国。かの始皇帝の陵墓は紀元前3世紀に築かれ、低く平たいピラミッドの形をしている。今もなお未発掘だが、その下には広大な地下複合施設が存在することが示唆されている。この地域の他の皇帝陵も同様の形式を踏襲している。
偶然の一致か、それとも普遍的な論理か?
古代エジプトとアメリカ大陸の文明が接触したという証拠は今のところ見つかっていない。広大な海が隔て、時間軸も大きく異なる。それにもかかわらず、両者はピラミッドを築いた。この類似性は長年学者たちを魅了してきたが、多くの専門家は「偶然の一致」であるという見解で一致している。
考古学ではこれを「収斂デザイン(しゅうれんデザイン)」と呼ぶ。ピラミッドという形は実用的な問題を解決するのだ。石や日干しレンガを積み上げ、構造物を長持ちさせたいと考えるなら、重力が計画の大部分を担ってくれる。高く積み上げるほど、形は自然と先細りになり安定する。 もちろん、実際にピラミッドを建設するのは容易ではなかった。組織力、人的資源、そして長期的な計画が必要だった。重い石を動かし、所定の位置まで持ち上げ、構造のアライメントを保つことは、単なる本能をはるかに超える作業であった。
実用性だけがピラミッド建設の理由だったわけでもない。多くの場所で、「高さ」は象徴的な重みを持っていた。山々はしばしば神聖な場所と見なされ、上へ上へと建造することで、人々はそのつながりを再現しようとしたのだ。ピラミッドは死者、神聖なるもの、あるいは儀式を、地上より高い場所へと据えた。
その形はまた、権力の象徴でもあった。ピラミッドは際立って目立ち、遠くからでも見ることができる。支配者にとって、その視認性は権力を意味し、都市に中心を与えた。土地に自らの印を刻み、死後も長く記憶されたいと願う支配者にとって、それはうってつけの形だったのだ。
