家康は信長からの援軍と共に三方ヶ原で武田軍と交戦しましたが、徳川・織田連合軍は惨敗したのです。

家康自身も浜松城に逃げ帰る途中、多くの家臣が死傷する中で命からがら助けられました。

この戦いは三方ヶ原の戦いとして知られています。

その後、武田軍は家康のいる浜松城を素通りし三河国へ進軍しました。

しかし、武田信玄の発病によりこれ以上の進軍は不可能であると判断し、野田城(現在の愛知県新城市)落城後武田軍は甲斐へと引き換えしていったのです。

なお武田信玄は帰路の途中にて命を落としており、生きて甲斐の土地を踏むことはありませんでした。

信玄が自身の死を伏せるように家臣に命令し、信玄は生きていると公表されていました。

しかし家康はそれを怪しみ、信玄の死を確認するために駿河に侵攻し、三河では長篠城を攻めました。

武田軍の抵抗がほとんどなかったため、家康は信玄の死を確信しました。

また、家康は奥平貞能(おくだいらさだよし)の調略を通じて奥三河を奪還し、長篠城(ながしのじょう)(現在の愛知県新城市)に奥平軍を配置して武田軍の再侵攻に備えたのです。

奥平貞能画像、奥平家は後に徳川家と血縁関係を結び、徳川家の重臣となった。
奥平貞能画像、奥平家は後に徳川家と血縁関係を結び、徳川家の重臣となった。 / credit:行田市郷土博物館

家康のリベンジをかけた長篠の戦い

長篠合戦図屏風
長篠合戦図屏風 / credit:徳川美術館蔵

武田家は信玄の死後しばらくは体制を整えることに終始していました。

しかし1574年、信玄の後継者の武田勝頼(たけだかつより)は家康との攻防を続けながら、東美濃の明智城(あけちじょう)(現在の岐阜県恵那市)や遠江の高天神城(たかてんじんじょう)(現在の静岡県掛川市)を攻略したのです。

その翌年勝頼は、長篠城の攻略に乗り出しました。

武田家は大軍で押し寄せたのに対し、長篠城の守備隊は500人の寡兵だったが、鉄砲や大鉄砲を有しており、谷川に囲まれた地形で猛攻をしのいでいました。