加えて幕府は株仲間を通じた通貨統一や、直轄の鉱山・鋳造権を背景に、全国的な経済統制を進める中で、座頭の金銭取引にも手厚い保護を与えたのです。
こうした施策は、徳川体制の確固たる封建秩序と中央集権的な統制の一環として、各身分の相互扶助や官職昇進の仕組みと深く連動していました。
結果として、検校の金貸業は単なる金銭取引を超え、江戸時代の政治・経済構造を象徴する重要な制度として、その存在感を強く残すこととなったのです。
ついに取り締まりの対象になった視覚障がい者の貸金業

しかしこのような時代は長く続きません。
正徳二年(1712年)八月三十日、幕府は惣検校に対し官金取締令を発し、視覚障がい者による官金貸付の実態に厳しい目を向けることとなりました。
短期の貸借契約、礼金・早利といった高利貸、返済の強要や公的訴訟の濫用などを取り締まり、「座頭共詰させ、不作法成仕形」に対しては速やかな逮捕を命じる厳格な措置が示されたのです。
これは、武士に対する高利負債救済の必要性に迫られ、浪人や町人の資金が仲介業に流入していた現状への対応でもありました。
さらに、鳥山検校(とりやまけんぎょう)をはじめとする視覚障がい者の高利貸しの資産家の台頭が顕著となり、高利貸しに起因する社会問題が一層深刻化していたことも理由として挙げられます。
これにより鳥山ら暴利をむさぼっていた検校は官位をはく奪された上当道座から追放され、江戸からも物理的に追放されました。
障がい者というとどの時代も歴史の陰で静かに生きていたイメージを持つ人も多いですが、江戸時代には健常者以上に目立つ活躍をした視覚障がい者も多くいたことが窺えます。