黒坂岳央です。

最近、「他人や自分が死んだ後の世界はどうでもいい。すべては自分の幸福だけを追求したい」といった趣旨の意見を見かけた。正直なところ、似たような価値観を持つ人は少なくないのではないかと思う。

これについて、筆者はあまり偉そうなことは言えない。というのも、自分自身も昔はそうした考え方に共感していたからである。

若い頃であれば問題は少ないが、年齢を重ねてもその生き方を貫くのは、並大抵の難しさではないと感じている。むしろ、「自分のためだけに生きる」というスタイルには、ある種の“才能”が必要である。

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社会は「他者と共に生きる」ことが前提

人は生まれた瞬間から社会という共同体の中で生きている。家庭、学校、職場、地域社会など、あらゆる場面で他人との関係性が不可欠である。

そもそも人間という存在自体、「個」としてではなく「集団」の中で生きるよう設計されている。完全に独力で生きていける存在であるなら、共感や承認欲求は必要ないはずだ。しかし現実には、赤ん坊ですら他者とのつながりを求める性質を持って生まれてくる。

このように、誰もが集団で生きる前提の中にあり、社会の仕組み自体もそのように設計されている。それにも関わらず、「集団の恩恵にはフリーライドしつつ、自分は一切そこにコミットせず、徹底的に利己的に生きる」という選択は、理想的のようでいて、実際には非常に難度の高い。

そうした生き方を成立させるには、強固な自分軸と、それを老いても揺るがせない精神力が求められる。

筆者もかつては一匹狼タイプであり、学校でも職場でも一人で過ごすことを選び続けてきた。現在もサラリーマンではなく、仕事中は一人だ。

そして自分はこれからもずっとそのような生き方を続けていくのだと信じていた。しかし、無理だった。

社会が集団を前提としている以上、個人の意志力だけでそこに適応し、幸福を得続けるには限界がある。結局、それには“才能”が必要であり、自分にはなかったという結論に至ったのである。

自分を軸にすることの難しさ