幸か不幸か、野生のヒグマに何度か遭遇した経験のある私は、実際に野生のヒグマを見ればとてもじゃないが「クマちゃん、可哀想」などと言ってはいられないことを知っている。命に関わるのだ。向こうも生きるために必死かもしれないが、こっちだって命は大事だ。
「クマちゃん、可哀想」と思うのは、心情的に理解は出来るが、ではそう感じたからといって、クマの被害に苦しむ人々の代わりは出来ない。まして、殺処分される筈のクマちゃんを引き取ることも出来はしない。何なら、クマが生息する山林を買い取ってクマだけが何の心配もない地域を作るかい?クマの1日の移動距離を知ってて言ってるのかな?クマが1日に必要なカロリー数を餌に換算するとどれだけの食糧が必要になるか、分かって言ってるのかな?
クマを必要以上に殺処分する必要はないが、クマと人間が共存していこうと思うなら、クマに増えないでとお願いすることも出来ないのだから、結局、人間が頭数調整するしかない。猪や鹿、猿だってそうだ。これら害獣指定されている動物たちの被害額を知ってて、動物保護を言ってるのだろうか?もしかしたら、「可哀想」と言う感情論だけで言ってないか?
つまり、前述の環境保護にしても動物愛護にしても不法移民保護にしても、結局は「可哀想」と言う感情論であったり、もっと分かりやすい表現をすれば一種の奢りによって発せられた言葉に踊らされてないか?と言うことだ。
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以後、続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。