宗教の自由とは結局、誰かの助けを求めたいという気持ちが前提にあり、何を信じてもよいということでしょう。
当地に韓国系の教会がたくさんあるのですが、日曜日の午前中、その場を通りかかると大きな教会ではおびただしい数の韓国系の方が教会に吸い込まれていきます。私の韓国系の知人に日曜日のランチはどうかと聞いたところ、教会があるから絶対だめだと断られるぐらいです。
私が高校の時はキリスト教のプロテスタント系でしたので毎日午前10時から30分間、校内の礼拝堂に行き、賛美歌を歌い、聖書を参照し、説教を聞き続けました。3年間それをやると説教が耳になじんでくるもので人の道とはなんぞやということを明白な言葉を通じて直接語りかけらえた意味はあったと思います。
そうはいっても自分で宗教の道に進むのはなかなか勇気がいること。創価学会はその点、聖教新聞という媒介を通じて消極的な人を広く吸い上げてきたと思います。自分のその時のマインドにピタリと当てはまる宗教がそこにあれば吸い寄せられるように入っていくのは「実際の声が聞ける」というメリットをそこに見出したとも言えます。
その点では旧統一教会もオウム真理教も同じ宗教であり、言葉があり、人を一定方向に導くチカラがあったといえましょう。「幸福の科学」の大川隆法氏が23年2月に亡くなってその後、同宗教法人が漂流を続けているのもカリスマ的指導者がいかに新興宗教の全てであるかを物語っていると思います。
私がバンクーバーで慰安婦像問題に取り組んでいた頃、ある方から「バンクーバーにある某宗教団体と手を組んだらどうか」と助言されました。その宗教団体は思想が保守系であり、団体が了解すれば団体のメンバーにすぐに浸透し、協力を得られるぞ」というものです。
当時、私も困っていたので渡りに船だとは思ったのですが、踏み留まりました。何度も電話に手が伸びて、幾度も事務所に行こうかと思いましたが、それはタダでは済まない依頼になるだろうというのが私を踏みとどまらせた理由であります。