日露戦争は陸奥宗光外相が辛うじて戦争を負けないうちに収束して乗り切ったのだが、一般大衆はそう思わなかった。三国干渉でロシアから賠償金を取れなかったことに怒った民衆が暴動を起こしたのだ。

世相は120年前に似ている。当時は日露戦争の戦費調達のため増税がおこなわれ、人々は困窮していた。戦勝で領土を拡大できると思っていた民衆は、賠償金も取れなかった政府の弱腰に怒ったのだ。

交番を焼き討ちして賠償金が取れるはずもないが、この暴動は無意味ではなかった。それは民衆の不満を対外的な戦争で解消する軍部の役割を拡大し、満州事変などの侵略戦争の動機づけとなったのだ。

民衆の暴発が中国侵略の遠因になった

これ自体は特定の指導者のいない暴発だったが、こうした世論に押され、日露戦争で得た満州の権益を中国に承認させようとしたのが、1915年の対華21ヶ条要求だった。

これは日本人が中国政府の「政治経済軍事顧問」になることを求めるなど露骨な内政干渉だったが、日本の世論は熱狂的にこれを支持した。朝日新聞は強硬に「要求貫徹」を求め、大正デモクラシーの旗手だった吉野作造も、この要求に賛成した。

1919年には満州の現地部隊が関東軍として独立し、満州を支配下に収めようとして、中華民国の軍閥と衝突し始めた。

今のところ財務省解体デモは暴動には発展していないが、テロ(立花孝志の襲撃)は発生した。ほとんど毎日のように統率のとれない団体がデモをくり返しているので、暴動に発展するのは時間の問題だろう。今の閉塞感は戦前に似ているので、それは思わぬ方向に暴走するかもしれない。