冷静に考えれば、兵庫県議の自死を追い込んだのが立花氏だったとしても、それに対して彼が憤る理由はない。立花氏は千葉県知事選に立候補していて、犯人の出自が定かではないが、自死した県議の身内でもない限り、それほどの義憤にかられる合理的理由が見当たらない。

犯人は、怒る必要のないことの怒りに任せ、立花氏を襲ったのではないだろうか?

彼は、自己表現の方法として、社会悪と称される人に正義の鉄槌を下すことで、自身の存在意義を満たそうとしたのではないか?

彼が立花氏を殺害したとしても、彼が怒りを感じた元兵庫県議が再び蘇ることはないし、現在兵庫県を揺るがしている問題が解決するわけではない。

彼は、自己存在の、あるいは自らの存在理由を確かめる自己実現の手法として、怒る必要のないことに怒り、起こす必要のない事件を引き起こしたのだろう。

拙稿でも触れているように、現在、兵庫県では兵庫県政混乱の原因は立花氏にあるとする連中が、立花氏の演説にカウンター行動を起こしている。

例えカウンター行動を起こしたとしても、兵庫県政の問題は政治問題なのだから、カウンター行動そのものが県政を動かす原動力にはならない。

むしろ、カウンター行動を起こすことで、黒ずくめの怪しい集団が騒ぎ立てている異様な光景を作り出しているだけだ。それは見るものに奇異な印象を植え付ける以上のものはない。

かつての安倍元総理に対するカウンター行動と同じで、結果的に、このような異常な集団を敬遠する、イコール、立花氏の言動に注目が集まるだけのことだ。

実際、安倍元総理は憲政史上最長の政権を維持し、高い支持率を維持し続けた。

人にはそれぞれの正義がある。広く人々にその正義を主張するのは間違ってはいない。

ただ、自分の正義が通らないことによる暴言、暴力による威迫は民主主義とは言わない。

事実、カウンター行動を起こした連中が批判する兵庫県の斎藤知事は、二度の選挙で民意を得て県知事に選ばれている。これこそが民意の表れ、つまり民主主義そのものではないか。