貴重なウクライナ軍兵士の人命が、外国の地であるロシア領で失われた。多くの兵士がロシア軍に投降して捕虜となった。
さらには米欧が提供したウクライナ軍がもともと保有していなかった最新鋭の兵器が、破壊されるのでなければ、捕獲された。巨額の援助でウクライナ領の防衛のための兵器が、ロシア領侵攻で失われただけではない。混乱した撤退で置き去りにされた米欧の兵器群が、ロシア側の手に入ってしまった。その損失の意味は、過小評価できない。
もともとクルスクは、1943年にドイツ軍がソ連に対して攻勢を仕掛けて失敗し、戦局を大きく不利にしてしまう契機を作ってしまった戦場だ。どうやらゼレンスキー大統領は、クルスクという名称のロシアの原子力潜水艦が、2000年に乗組員全員が死亡する事故を起こしたことを縁起担ぎとして、侵攻作戦を思いついたような形跡がある。しかしもちろんそれは単なる駄洒落のようなものだ。より重要なのは、第二次世界大戦中のクルスクの戦いの歴史で示されている地理的な重要性だ。
クルスクは、モスクワとキーウを結ぶ平野部の線上に位置する。当時しきりに米欧諸国供与の兵器を用いてロシア領を攻撃したいと支援国に懇願していたゼレンスキー大統領は、モスクワ攻略まで夢見ていたのかもしれない。だが実際には、クルスクからキーウへの距離のほうが、モスクワへの距離よりも、圧倒的に短い。ロシア領であるかどうかは、関係がない。キーウのほうが近いのだ。
それにもかかわらず、ここで大規模な戦線が開かれて、そのうえロシア有利で進んだら、ウクライナ側が圧倒的に不利である。本来であれば、ウクライナにとっては、境界線を決壊させて兵力を集中させるのではなく、強固な防衛線を築くことに、合理性があった。
1943年にドイツ軍は、自らの実力を過信して、ソ連軍にクルスクでの正面衝突の戦いを挑み、撃破され、敗走した。その流れは、ソ連赤軍によるベルリン陥落まで、もはや変わることがなかった。