軍部も、自分たちの戦場の勝利を、外交官が台無しにした、という怨恨の気持ちを持った。これはアメリカの関係を重視する論理を持つ海軍と比して、そうした風土を持たない陸軍において、いっそう強かった。日露戦争の果実としての満州における権益が、満州鉄道の開発などの形で進められたとき、陸軍は外務官僚の関与なく進める傾向を強く持つことになった。

アメリカが満州鉄道の共同開発を提案したとき、外交的な論理では、ポーツマス条約の立役者であるアメリカとの関係を重視して歓迎する見方もありえた。しかし陸軍は反発し、結局、満州開発は、アメリカを排するどころか、陸軍独占権益の形で進められることになった。

アメリカは日本の大陸進出に懸念を持つようになった。ロシア革命後のシベリア出兵における日本軍の行動も、アメリカから見れば、猜疑心を強めざるを得ないものであった。ソ連がスターリン時代の一国革命主義の時代に入ると、アメリカはますますソ連よりも大日本帝国を警戒するようになる。

両大戦間期の軍縮交渉で、アメリカは日本の軍事力を厳しく制限することを試みるようになり、アメリカの圧力で日英同盟も終結した。日本国内では、陸軍を中心とする軍部が、アメリカに激しく反発するようになった。そして満州事変以降に、日本の中国大陸での拡張がさらに新しい段階になると、アメリカとの関係の破綻は決定的となった。

私は、現在のウクライナにとって、アメリカとの関係は死活的な重要性を持つので、アメリカとの関係の維持に高い優先順位を置くのは当然であった、と考えている。ヨーロッパ諸国との円滑な関係の維持のためにも、アメリカとの良好な関係の維持が重要であった。戦時中の熱情から、戦争の継続それ自体を崇高な目的にして、アメリカとの関係を犠牲にしてもやむを得ないといった考え方には、危険が伴うと考えてきた。

結果として、日本国内では、軍事評論家を中心とする「ウクライナ応援団」界隈の方々から「親露派」「老害」のレッテルを貼られて糾弾され、人格的攻撃も受けるようになった。