日本がロシア・ウクライナ戦争を見る時に、非常に興味深いはずの視点は、日露戦争との比較だ。日本は、ソ連だけではなく、ロシアと交戦をしたことがある稀有なヨーロッパ域外の国である。
日論戦争の終結は、ポーツマス条約によってなされた。これは学校授業の日本史のレベルでよく説明されているように、非常に困難なプロセスであった。しかし現在のロシア・ウクライナ戦争を見たときに、幾つかの重要な示唆がある。現在、ロシア・ウクライナ戦争で、アメリカの調停が注目を集めている。この点に注目しながら、日露戦争終結の歴史について考えてみてもいいだろう。
日本はイギリスと同盟関係を結んでロシアとの戦争を戦った。開戦から1年の間の戦況を有利に進めることができた日本は、しかし長期戦になれば不利になることをよく覚知していた。ロシア国内の厭戦ムード・反政府運動を高めるための工作も成功裏に進めていた。
そこで日本は、タイミングよくアメリカの第三者調停を導入することに成功した。アメリカは日英両国と友好関係を持ち、ロシアの南下政策を警戒していたので、形式的には第三国として中立国だったが、日本にとって非常に望ましい調停者であった。

ポーツマス会議 向こう側左からコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ、ローゼン、ブランソン手前左から安達、落合、小村、高平、佐藤 Wikipediaより
そのアメリカは、ポーツマスにおいて、日本の完全勝利とは言えない調停案をまとめるための圧力をかけてきた。日本の指導者層は、満足はしなかったが、アメリカの調停による戦争終結が果たされなければ、待っているのは惨事だけであるという認識から、苦渋の決断として、ポーツマス条約を受け入れた。
ところがそれは外交政治指導者層以外の人々には、受け入れられなかった。賠償金のないポーツマス条約の内容に怒った民衆が、日比谷焼き討ち事件に代表される激しい反発を示した。外交交渉にあたった小村寿太郎は、右派層からは国賊のように扱われた。これはその後の日本の政治文化及び政府内エリートが右傾化していく温床となった。