確かに、バブルの時代を経験した人、その後の不景気、頑張っても報われない時代を経験した人は、どうして自分の時代はそれ以前と以後に比べて不遇だったのか?という捉え方をするのは、畢竟、生きている以上はある。何が幸福で何が不遇かは、最初のテーマと同じで主体と客体の違いで評価が異なるとも言える。

小川淳也は御涙頂戴で同世代人への同情を示したが、東大を出て自治省に入省し、順風にキャリアを重ね、国会議員に転身して野党第一党の幹事長まで上り詰めた人が、同時代人に同情の涙を流すと言うのは、同時代人を馬鹿にしているとも言えないだろうか?そんなに捻くれて物事を捉えるなと言う意見具申はもちろん受け止めるが、いやしくも小川淳也は公人であり公党の幹事長だ。

同時代人への思い入れは思い入れとして、では、そんな「可哀想」な人たちに施しを行っていると言う態度は、こう言う場で見せるべきではない。そこが小川淳也の弱さだ。

仲間内の飲み会の席なら、泣こうが喚こうがどうでもいいが、こう言う場で御涙頂戴は本心ではないとしても、本心と捉えてくれないこともある。政治家は、政策論を行なっている時、感情論に走ってはいけない。感情論が政治を動かしてはいけないのだ。

あくまで合理性と具体性、そして、政策のベースになる数字が元になった「議論」を行わなければいけない。仏教で言うところの「小乗の悪は大乗の善」なのだ。その「小乗の悪は大乗の善」に必要なのが胆力だ。腹に力が入っていない政治家は、底が知れている。

小川淳也は確かにリベラルな政治家で、共産主義者というより自民党の社会民主主義に近い趣がある。

今の国政において、実は小川淳也のような中道に近い社会民主主義者の政治家が増えているように思う。と言うより55年体制のように表立って社会主義、共産主義を標榜しても人気は取れないことが政治家の中で明らかになってきた以上、路線変更を余儀なくされている政治家が増えたように思う。