
Wikipediaより
歴史の正否は、主観と客観で評価が分かれるのは当たり前。現在、インバウンドで日本に来る外国人の多くが、アニメ、自動車、カメラ、電化製品で作られた日本のイメージを覆されているが、それは単純に、日本に来たことも住んだことも無いからだ。
同様に、国家の歴史観は主観的な自国民の価値観と客観的な価値観では見方が異なる。それは地政学も大いに影響しているわけで、欧米諸国から見たアジアとアジアの中から見たアジアの国々では印象も評価も全く異なる。
異なることは分かっているのだが、島国である日本はインバウンドによる他国の影響を受けやすいが為、歴史認識と他国の影響度合いについて、日本人同士で評価の基準を設けたりその基準が変遷したりは、決して間違ってはいないと感じる。日本人って、結構、柔軟なのだ。ただ、歴史評価において明らかに欧米諸国から見てもアジア圏の人々が見ても、さほどその評価に差が生まれないことは確かにある。
日本は侍の国でありハラキリの国であり天皇がいて、見た目はアジア人なのに、文化は欧米に近いという側面もそうだ。日本人を見て未開の地から来た人だとは、世界の人は思わない。それどころか、日本は文化的にも国民性も世界の先端を行く人たちだと思われている。昭和から平成に時代が変わる中、日本経済は青息吐息だったのに、日本人の評価は海外で高まってきた。
そんな日本人の特異性として、実は外からの影響にも柔軟だと言える。これは、昭和から平成、令和の時代の変遷に、適応している若者を見ればよく分かる。昔は良かったなどと言ってるのは、老害のみ。若者は、今の時代を渡り歩くことに長けている。だからこそ、歴史観を重要だと思う老害が後世の若者に残していける点は何か?を老害自身が考察しなければいけない。
ReHacQの小川淳也立憲民主党幹事長は、就職氷河期世代の人々への想いを語っていたが、これは同世代を生き抜いている彼ならではの言葉とも言える。