ウクライナ戦争の講和がいよいよ視野に入ってきました。アメリカとロシアの高官同士の会合が18日にサウジアラビアで行われました。アメリカからはルビオ国務長官をトップに、ロシアからはラブロフ外相をトップに据えており、実質国家外交No.2同士の話ですので実務者協議というよりかなり政治的な役割を含めた内容であったと思います。
ゼレンスキー氏はこの会合の翌日である19日にサウジ入りをする予定を止めてしまいました。複数の情報を分析する限り、初期の米ロ会合はウクライナ抜き、欧州抜きにして二国間ディール主体型の取引にしたため、ゼレンスキー氏が腹を立てたとみています。ただ、同氏がこれを不服として「俺は行かない」と言ってしまえば講和の枠組みは米ロでほぼ決まってしまう形になります。
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ゼレンスキー大統領インスタグラムより
この会合にはサウジのファイサル外相も参加しており、サウジの役目としては同外相がムハンマド皇太子に伝え、それをゼレンスキー氏に伝えるという役目を想定していた模様です。
講和会議は勝者や大国の役得的なところがあります。第二次世界大戦の講和であるクリミアで開催されたヤルタ会議はその好例であります。敗戦濃厚の日本、ドイツに対してヤルタに集まったのはソ連のスターリン、アメリカのルーズベルト、英国のチャーチルでありました。つまり戦争当事国の双方ではありません。極端な話、敗戦国へのペナルティや戦争責任をどう課すか、とい勝者の方程式が支配しました。
一方、日露戦争の講和会議、ポーツマス条約はアメリカのセオドア ルーズベルト大統領(上述のフランクリン ルーズベルトとは従兄弟関係)が仲介し、日本とロシアが直接交渉をしたのですが、その結果は日本国民に強烈な不満を引き起こし、のちの大戦の遠因となる国内強硬論者への刺激となりました。ちなみに司馬遼太郎は日露戦争終結から日本は別の国のように変わってしまったと述べていますが政府と国民の情報差、温度差、認識の差が不和の時代の始まりだったとも言えそうです。