「要求定義」と「要件定義」

 裁判所が、NHKが要求している代金の返還と損害賠償を認めないという判断をする可能性はあるのか。山岸純法律事務所の山岸純弁護士はいう。

「システム開発においては、一般的に『要求定義』、すなわち『今はこれだが、これからあれを開発して欲しい』という依頼者側の求めをまとめる作業と、『要件定義』、すなわち『これからこれを開発します』という開発者側の理解をまとめる作業があります。今回の日本IBMの言い分は、NHKから『今はこれだが』と言われたものが間違っていたので開発するのが難しくなった、というものかと思います。

 システム開発の失敗を原因とする裁判をよく見るのですが、『要求定義』か『要件定義』のどちらか、または双方があいまいだったために失敗する例がほとんどです。このため、今後、依頼者側が提出した『要求定義』と、開発者側が提出した『要件定義』と、どちらに非があったのかが争点となります。

 こういった裁判で、極めて重要な“決め手”となるのは、キックオフから開発破綻まで、何度も何度も重ねられてきた会議の『議事録』です。裁判ではこの『議事録』をもとに、

・いつの時点で、
・開発に関するどんな問題が発生し、
・各当事者はどのような行動をしたのか、

を過去に戻って紐解いていく作業となります(議事録がない場合は、もはや“泥沼”です)。

 はたして日本IBMが言っているように『あの時、このままだとこうなってしまうよ、と言っていたじゃん』といったことが認められる場合には、(契約内容による修正もあるかもしれませんが)『このまま』にしたことがNHKの責めに帰すべき事由なら、損害賠償は認められません。しかし、システム運用の歴史があるとはいえ、NHKはシステム開発について素人であるのに対し、日本IBMはプロ中のプロです。このため、『こうなるよって、言っていたじゃん』による免責は、ある程度修正されることでしょう」

(文=Business Journal編集部、協力=山岸純/山岸純法律事務所・弁護士)

 当サイトは2月5日付記事『システム開発中止で日本IBMへの損害賠償請求が相次ぐ背景…NHKも』で本件を報じていたが、以下に再掲載する。

――以下、再掲載(一部抜粋)――

 データアナリストで鶴見教育工学研究所の田中健太氏はいう。

「NHK受信料関係業務のシステムというのは世界に一つしかなく、非常に特殊なシステムなので、日本IBMとしては当初は開発できる知見が自社にあると考えていたものの、実際に開発してみると目論見と大きく違う点が多く出てきたという可能性はあるでしょう。

 一つ気になるのは、現行システムは富士通のメインフレームが使われており、更新作業も富士通が担うというのが自然な流れですが、富士通が受注しなかったという点です。金額的に折り合いがつかなかったのか、日本IBMが低い金額で入札したのか、いくつか理由が考えられますが、もし仮に日本IBMが受注することを優先して低い金額で契約していたとしたら、プロジェクト体制として人員が足りなくなり、取り決めた開発方式やスケジュールでは難しくなったというパターンも考えられるでしょう。

 このほか、日本IBMは2021年に分社化のかたちでITインフラストラクチャーの構築を主な業務とするキンドリルジャパンを立ち上げており、NHKとの契約はその翌年なので、分社化によって大規模システムの開発ノウハウを持つ人材が日本IBM内に少なくなってしまったという可能性も考えられます」

 大手SIerのSEはいう。

「どんなに要件定義や設計の段階で仕様を固めても、実際に開発を進めていくと当初の見積もり以上の工数がかかる作業が多かったり、現場の業務フローや他システムとの接続・連携の兼ね合いで仕様を変更せざるを得なくなるということは、珍しいことではありません。発注元企業のなかでIT部門やシステム子会社が、各部門の要件を十分にまとめきれていなかったり、業務フローの変更についてきちんと合意を得られないまま突っ走ってしまい、各部門から反発を受けて仕様のほうを変えざるを得なくなるということも、よくあります。

 そうした目論見違いが潰していけるレベルで収まればなんとか開発を進行させることができますが、規模や頻度が一定レベルを超えるとプロジェクトの進捗に支障が生じ、ベンダー側で工数増加やスケジュールの伸長が生じて、発注元企業は追加費用や開発の進め方の大幅な見直しを求められるということになります」