それでは忍者は人々からどのように認識されていたのでしょうか?
『武家名目抄』によれば、忍びには「透波」「乱波(らっぱ)」「草」「かまり」など、さまざまな呼称があります。
「透波」は、人を欺き、素行が不良で言動が一致しない者(ウソつき=すっぱ)に由来し、「乱波」は騒がしく動き回ることで敵を翻弄する者を指します。
彼らは敵地に潜入し、敵情を探るのはもちろん、火を放ち、暗殺を行い、また敵軍を混乱させることを任務としていました。
要するに、忍びとは、戦国の混沌を自在に操る影の工作員であったのです。
ただ、忍びたちの出自は一様ではありません。『武家名目抄』では、「透波」「乱波」などの忍びの多くが、野武士や山賊、海賊、強盗といったアウトローの出身であったことが記されています。
こうした者たちは盗人でありながら、ただの盗人ではありません。
心が強く、時に横道を進みながらも、狡猾で大胆。戦場ではその才知を買われ、大名たちは彼らを養い、忍びとして働かせることが常であったといいます。
一方、忍びたちが戦場で担った役割の重要性が高まる一方で、彼らの社会的地位は決して高くありませんでした。
これは先述したように忍びの多くはもともと野武士や賤民、山賊などの出身であり、彼らの身分や行動は蔑視されることも多かったためです。
『甲陽軍鑑』では、忍びを「乱波者」(ろくでなし)と揶揄するような記述さえあります。
彼らは戦場では英雄的に振る舞う一方で、社会的には冷ややかな目で見られていました。
それでも、忍びたちはその技量と知恵をもって戦国の世を駆け抜けました。
昼間は山中に身を隠し、夜になれば草むらから顔を出し、敵の陣に忍び入ります。
彼らは夜の王者であり、その生き様は、まさに影法師そのものでした。
戦国の闇夜に、忍びたちの息遣いが聞こえます。その足跡は、今も歴史の彼方に深い爪痕を残し、彼らが生きた時代の混沌と自由を物語っているのです。