画家の道が閉ざされたヒトラーはドイツのバイエルンに移動する。そこで1925年、民族主義的な政党「国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP=ナチス)の党首として政治家の道を歩みだす。バイエルン州では1922年、公共秩序の破壊行為などで3カ月間の有罪判決を受け、23年には中央政権の転覆を図ったミュンヘン一揆の首謀者として投獄される。ヒトラーは当時、ドイツ政界で民族主義的な過激な政治家として受けとられていた。バイエルン州のグラフ・フーゴ・フォン・レルヘンフェルド首相は当時、ヒトラーを出身国オーストリアに強制送還しようと考え、オーストリア側と交渉したが、オーストリア側はドイツ側の要請を拒否したのだ。オーストリア側は危険な活動家ヒトラーの帰国を懸念し、バイエルン政府の送還申請を受け入れなかったわけだ。
ヒトラーは送還されず、ドイツに滞在し、1925年には「我が闘争」という本を書き、それがベストセラーとなり、ヒトラーの名前はドイツ全土で有名となった。そして1933年にドイツ首相に任命され、1935年、ニュルンベルク法などを採択して戦争への道を直進していったわけだ。
第2の「イフ」は、もしオーストリア政府が当時、ドイツ政府からのヒトラー強制送還の要請に同意し、ヒトラーの帰国を認めていたならば、ヒトラーはナチスドイツの指導者となならずに済んだかもしれない。そうなれば、ユダヤ大虐殺といった世界的蛮行を起こすこともなかったのではないか、ということだ。
話はヒトラーから少し離れる。ドイツのバイエルン州のアシャッフェンブルクで今年1月22日、襲撃事件が発生した。アフガニスタン出身の男が、モロッコにルーツを持つ幼稚園児の2歳児を含む2人を殺害し、他の人に重傷を負わせた事件だ。28歳の容疑者は本来、国外退去を求められていた。それが実行されず、今回の事件となったのだ。「もし28歳のアフガンの男性が強制送還されていたならば・・」、今回のような襲撃事件が起きなかったはずだ。そこでドイツでは現在、不法な移民、難民の強制送還を実行しなかったバイエルン州政府への批判の声が挙がっている。状況がヒトラーのオーストリアへの強制送還の件と何か似ている。