歴史には「イフ」はタブーだといわれる。「もしあの時、こうだったら・・」といった仮定を考えると、歴史の流れは全く違った流れとなってしまう。起きた史実を土台に、「その後」の歴史の流れを順序よくフォローすることが歴史を学ぶ場合の正統な道だろう。
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アドルフ・ヒトラーの1938年の肖像写真、Wikipediaより
そのタブーを破ってもどうしても考えたいテーマがある。約600万人のユダヤ人を虐殺したアドルフ・ヒトラー(1889~1945年)がドイツで国民社会主義労働者党(ナチス)の指導者として全欧州で戦争を展開させていったことは残念ながら史実だが、ヒトラーが人類史上最悪の蛮行を行わない人生を送るチャンスが少なくとも2度あった。その2度のチャンスは生かされず、ヒトラーの運命の歯車は急テンポで回転していき、もはや誰も止めることができなくなったのだ。
オーストリアのブラウナウ・アム・インで生れたヒトラーは若い時代、画家になることが夢だった。ヒトラーは1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指したが、2度とも果たせなかった。ウィーン美術学校入学に失敗したヒトラーはその後、ミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は政治の表舞台に登場していく。
ちなみに、ヒトラーの入学を認めなかった人物はクリスチャン・グリーペンケァル教授だ。同教授は画家エゴン・シーレの師としても有名だ。同教授は68歳の時、ヒトラーの入学試験に初めて立ち会った。グリーベンケァル教授はシーレを合格させ、ヒトラーを不合格にした美術教授として歴史に名を残した(「ヒトラーを不合格にした教授」2008年02月15日)。
第1の「イフ」は、ヒトラーが美術学校の入試に受かっていたなら、ヒトラーはミュンヘンにいくこともなく、ウィ―ンで画家になる道を歩みだしていたかもしれない。そうしたら、ナチスドイツの指導者となることもなく、多くのユダヤ人を虐殺することもなかっただろう、ということだ。