「グローバル・サウス」なる概念を、自民党議員のみならず学者層までが、多用していることについて、私は批判的である。その最大の理由は、「グローバル・サウス」なるものは世界に存在していない、と考えるからである。

欧米諸国と、あとは東アジアやオセアニアの一部の諸国を除いて、世界の全ての諸国を、「グローバル・サウス」なる実態を欠いた抽象名詞のみで括られる一つのグループに属している、と断定するのは、壮大な現実の歪曲である。端的に間違いであり、思考の暴力である。実務的にも、あらゆる側面で外交政策の誤謬を招くだろう。

だが「世界に200も近く国があって各地域ごとにも異なる特性があるなどというのは面倒すぎる、どうせそれらの諸国は貧しくて力も弱い国なのだろう、ざっくり一つのグループだということにして理解したことにしてしまうのはどうか」、という考えに、日本の高齢者層が誘われてしまうのは、どうしようもないことなのだろう。

だが、たとえ少子高齢化の日本の市場原理が高齢者向けに進むとしても、そのような思考が実際の世界と乖離していることは、隠しようがない。

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インドが、「グローバル・サウス」概念を使った外交術を駆使することがあるのは、事実である。だがそれはあくまでインド政府が自国の国益を計算して有利だと考えて進めているインド外交の話であり、基本的にはただそれだけのことである。

たとえばインドは、中国とは異なり、世界のその他のいずれの国とも異なる。

現在、中国は、世界第2位のGDPを誇り、インドは世界第5位である。インドが数年後に日本とドイツを抜いて世界第3位の経済大国になることは、確実である。その現実を目にして、「中国とインドは有力な新興国だな」、と日本で呟くことは、余裕のなせる業か、現実逃避の姿勢によるものか。

「グローバル・サウス」論の陥穽は、歴史観が近視眼的すぎることでもある。中国とインドがGDPで欧米諸国及び日本の後塵を拝していたのは、19世紀途中から20世紀にかけての時代においてだけである。人類の長い歴史の中では、ほんの一瞬と言っても、過言ではない。

19世紀初頭の世界経済を例にとれば、中国のシェアは3割以上、インドが約2割で、両国で世界経済のほぼ半分を占めていた。イギリス、アメリカ、ドイツのGDPが、中国のGDPを抜くのは、ようやく19世紀末になる頃である。しかもそれは純粋な市場経済の原理の中で起こった出来事ではない。欧米列強が、軍事力を駆使して、中国大陸を半植民地化して侵食していった結果として、経済力の逆転現象が起こったにすぎない。