望まない形でJ2でのプレーを余儀なくされた柿谷だったが、当時の徳島の美濃部直彦監督(2008-2011)や、主将だったMF倉貫一毅(2008-2011、2014年引退)からプロ意識を植え付けられた。C大阪の下部組織出身でチームメイトだったMF濱田武(2010-2017、2017年引退)が生活面でフォローし、柿谷のお寝坊癖などの素行を改善させた。

徳島は目標としていたJ1昇格はならなかったが、柿谷は当時を振り返って「選手として死にかけていた俺を救ってくれた」と感謝を口にしている。

柿谷曜一朗(セレッソ大阪所属時)写真:Getty Images

海外挑戦から引退まで

2012シーズン、C大阪に復帰した柿谷は、FWやトップ下としてレギュラーポジションを奪取。中心選手としての活躍ぶりを見せる。ブンデスリーガのニュルンベルクやボルシア・ドルトムント、バイエル・レバークーゼン、セリエAのフィオレンティーナなどからオファーを受けるが、「ゼロ円移籍」を嫌った柿谷はそのオファーを蹴り続けた。

海を渡ったのは2014年7月。柿谷は150万ユーロ(約1億8,000円)の移籍金をC大阪に残し、スイス・スーパーリーグの名門バーゼルに加入する。4年契約を結び、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)にも出場したが、2015/16シーズンに入ると負傷をきっかけに監督の構想外となり、C大阪に再び復帰(2016-2020)。J2を戦っていたチームのJ1昇格に大いに貢献した。

2021シーズン、度重なるオファーに応える形で名古屋グランパスに完全移籍(2021-2022)。中心選手として活躍するが、翌2022シーズンに入ると、左腓骨筋腱損傷などの負傷が相次ぎ、徐々に出場機会を減らしていく。

そこに救いの手を差し伸べたのは再び徳島だった。しかし、前回の移籍時(2009-2011)とは立ち位置は全く異なり、ベテランとして若手の見本となることはもちろん、スペイン人のベニャート・ラバイン監督が掲げるポゼッションを重視するサッカーを体現する存在だった。