つまり、人間が善悪を判断すると、ある人は正しいと言い、ある人は間違っていると言い、どれだけ議論しても結論はでず、時に感情的に対立してやがては憎しみあうようになってしまう危険があるということです。そのような危険を回避するために、神は「人間が神のように善悪を知るべきではない」と考えたのだと私は推測します。

安楽死の是非は、まさしく「道徳や科学では判断できない」問題の一つです。

キリスト教では、人間は自力では原罪より逃れることはできないとされ、逃れる方法は次のように解説されています。

原罪からの解放は、カトリックでは信仰のしるしである洗礼の秘跡に、プロテスタントではキリストの贖罪とキリストへの信仰のみ(ソラ・フィデ)によるとされる。

簡単に言えば、「神を信じる」ということです。神を信じれば、原罪より解放されるのです。一方、 「善悪を知る」ことにより生じた混乱が、なぜ神を信じると収束するかについては十分な説明がありません。私は次のように解釈します。

神を信じれば、神の啓示(あるいは教会の教え)により善悪の判断は自明となり混乱は収束するという解釈です。つまり、自分で判断するな、神の啓示に従えということです。確かに善悪の基準が神により絶対化されてしまえば人間が悩み混乱することはなくなります。安楽死の問題も神の啓示に従えばよいのです。

安楽死の問題のように議論を続けても結論が得られない問題は、紀元前の大昔より人間を悩ませ続けてきたのです。そして、「善悪のすべてを判断することは人間には荷が重すぎる」ということが当時から理解されていたと考えられます。

創世記の執筆者の巧妙な点は、禁断の実を食べたため原罪が生じたという設定をして、宗教的な話にしたことです。ただし、信仰による原罪の解放を最初に明確に認識したのは紀元後のパウロであり、 その後の宗教改革のルターではあります。

宗教には「善悪の判断が困難な問題、つまり道徳や科学で判断できない問題」に決着をつけるポテンシャルがあります。別の言い方をすれば、現代においての宗教の存在意義は「道徳や科学で判断できない問題」を解決することであると私は考えます。したがって、宗教には安楽死の問題に決着をつけるポテンシャルがあります。