(前回:安楽死の是非に正解はあるのか?③)
人間がすべての善悪を判断することには無理があると私は考えています。価値観が多様である現代においては、善悪の絶対的定義は不可能なのです。一方、不可能であるとは言っても、善悪の判断の決着が必要となる局面は人間社会では現実には存在します。そのような局面では、宗教が大きな存在感を示す場合があります。
本論考では、安楽死の問題などのように「いくら議論を続けても誰もが納得できる結論に至ることができない問題」に対して、宗教がどのような役割を 果たしてきたかについて考えてみます。なお、私は宗教の専門家ではありませんので、学問的には正しいとは言えない解釈が含まれているかもしれない点はご容赦ください。
安楽死のような解決困難な問題に決着をつける方法は、基本的に次の2つだと私は考えます。一つ目は多数決で決めることです。二つ目は、絶対的な判断基準を誰かに設定してもらうことです。しかし、それは容易なことではなく、人間には通常不可能と考えられます。一方、宗教はそれが可能と私は考えます。なぜ可能なのか、キリスト教で考えてみます。
キリスト教には原罪という概念があります。次のように解説されています。
「創世記」(3章1~24)で、イブがヘビにそそのかされてアダムを誘惑してエデンの園の中央にある木の実を食べさせ、「神のように善悪を知る者」(3章5)となった結果、神の呪いを受けエデンの園から追放されるに至る神話が、原罪説の源泉である。
私はこの話において、次の点に注目します。「人間が神のように善悪を知る者」となることを、なぜ神が問題視したかという点です。善悪を知ることにより人間が神に近づくことを神が問題だと考えたという説明もありますが、もう少し深い意味があるのではないかと私は考えています。
「善悪を知る」ということは、「道徳や科学の観点より物事が正しいかどうかを判断する」ということです。道徳は時代とともに変化し、科学は道徳に影響を与えます。問題は、人間界には「道徳や科学では判断できない問題」、言い換えると「いくら議論を続けても誰もが納得できる結論に至ることができない問題」が多数存在することです。そのような問題を無理に決着させると、混乱を招く危険があります。