新型コロナウイルスでもウクライナ戦争でも、今や「専門家」がSNSで「大衆」を「啓蒙」してくれる時代である。なにか新しい事件が発生すると、「専門家」がたちまち現状を「分析」し、背景を「解説」し、「処方箋」を出してくれる。それは、バッティングセンターでボールが打ち出されるたびにバットを振るような、反射的・反復的な行為である。その見事なバッティングを脇で見ている私たちは、もう本を買って読む必要するないような気さえしてくる。

しかし、私たちは真の意味で知識を得て、じっくり問題を考えていると言えるのだろうか。確かにインターネットの発達は、とりわけ最近のSNSの発達は、自分が知りたい情報に手軽にアクセスする手段をもたらした。「検索」さえすれば、私たちは、現在、どんな話題が注目されており、その話題への言及の仕方として何が「正解」かをすぐに知ることができる。けれども、私たちは「いま」の「トレンド」に関する膨大な情報の海に飲み込まれて、過去からの連なりとして現下の情勢を捉える、歴史的な思考を失ってはいないか。

本当に「いま」は「未曾有の事態」で、過去は参考にならないのか。「価値観をアップデート」して、「不正義」に満ちた過去の社会から「いま」を切り離し、理想の社会を一から構築することなど可能なのか。あまりにも「いま」の来歴、眼前の事象の歴史的な文脈が軽んじられ、その場その場の「最適解」を瞬発的に繰り出すゲームばかりがもてはやされていないだろうか。

むろん、時々刻々と変化する戦況をリアルタイムで解説することも重要である。けれども人命の懸かった戦争の解説が、スポーツの実況解説と同じであって良いはずがない。自然科学なり地政学なり社会学なりといったもっともらしい衣をはぎ取れば、私たちが目にしているのは、「いま」起きている(ウイルスとの戦いや、SNS上の口論などのバーチャルなものも含めて)戦闘の目撃者となれたことを嬉々として誇る、野次馬たちの自己顕示的な講釈にすぎないのではないか。そのような懸念が拭えない。

右に述べたような「いま」を絶対視する潮流に抗して、「いま」が歴史の流れの中の一コマにすぎないことを示すのは、歴史学の社会に対する責任であり使命であろう。ところが、日本の歴史学界はむしろ世間の空気に同調し、形だけの政権批判を続けつつ、その実、「いま」を無批判に受け入れている。

そのことを象徴するのが、新型コロナウイルス感染拡大抑止の名の下に政府が国民に強要した「自粛」への対応であった。「緊急事態」という「錦の御旗」に歴史学者たちは屈服し、それどころかロックダウンなど、より強力な行動制限を政府に求めた。戦時下の日本が、非常事態を口実に私権制限を行ったこと、必ずしも政府の取り締まりではなく、国民が自発的に「非国民」を吊るし上げる相互監視によって国民の自由が奪われていったことを、歴史学者たちは厳しく批判してきたのではなかったのか。

もはや日本の歴史学者たちに、歴史的経緯を踏まえた世界の見取り図を描いてくれることを期待することはできない。では、どうするか。歴史学者の端くれとして、私になにかできることはないか。

そのような悩み、問題意識を、私は知人である與那覇潤氏としばしば語り合った。いや、正確に言うならば、私が與那覇氏に感化された部分が大きい。歴史学者を廃業するほどに、與那覇氏の歴史学への絶望は深いからである。

我々二人が思いついた突破口は、往年の文明論の名著を読み直すことだった。すっかり廃れてしまったジャンルであるが、長く日本のビジネスマンに「世界の見方」を教えていたのは、作家・評論家・学者らの手になる文明史、文明批評であった。過去の文明から現代を見通そうとするそれらの語りは、「雑な床屋談義」としてアカデミズムに見下されつつも、学界と社会をつなぐ回路になっていた。

だが、今では文明論の伝統も絶え、書店に並ぶのは、歴史学者が書いたマニアックで小難しい歴史書と、歴史学の知見を全く無視したトンデモ本・ヘイト本だけである。ゆえに我々は、「いま」を相対化するために「古典」と呼ぶべき文明論を読むしかなかった。

本書で取り上げる本は、みな数十年以上前の著作である。一般に優れた著作であればあるほど、その本が書かれた時代が刻印されている。しかしながら、それは決して古くささを意味しない。優れた文明論は、時代性と同時に普遍性を備えており、歴史の風雪に耐える。現代の視点から読み直すことで、新たな発見が得られるのである。彼らの先見性や時代的限界を把握することで、「これからの文明論」を構想する手がかりをつかめよう。

書店に平積みされている「いま」を語る本の賞味期限は短い。あるいは本書もすぐに消えてしまうかもしれない。しかし、本書で紹介した著作は、今後も参照されるだろうし、参照されるべきだと思っている。

本書をきっかけに、文中で取り上げた著作はもとより、その他の優れた文明論に関心を持っていただければ望外の幸せである。

『教養としての文明論』

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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