その機に乗じて江沢民が党大会で「社会主義市場経済」を提唱すると、保守派は慨嘆した。計画経済の司令塔だった国家計画委員会(現国家発展改革委員会)では、いっとき訪問客も途絶えて、火が消えたようだったという。

保守派はその後も鄧小平や改革開放に反対して、圧力をかけ続けたが、事態は悪化の一途だった。民営経済を認知し、企業経営者(「資本家だぞ!?」)の入党を許し、譲歩に譲歩を重ねて西側が牛耳るWTOに入れてもらって・・・保守派にとっては不本意な出来事ばかりだったろうが、如何せん、財政におカネが無いのでは、公有制も発展のしようがない。代案が出せないのでは、黙って雌伏しているしかなかっただろう。

2001年のWTO加盟を契機として外資企業の投資が殺到し、中国経済の飛躍的発展が始まったことが転機になった。投資だけでなく輸出も急増して、税収が急速に増加、国庫は「素寒貧」の状態を脱し始めた。政府は遅れていたインフラ整備に全力を挙げ始めた。沿岸各地のコンテナ港や全国高速道路網がの整備が急速に進んだ。

鄧小平、江沢民、朱鎔基らが進める政策に反対しても「カネがないんだから仕方ないだろう」と言い放たれると、無念の思いで俯いていた保守派はそれで顔を上げることができたのだろう。 「民進国退」が暗転して「国進民退」になった背景には、恐らくこんな事情があったのだ。

「国進民退?・・・それはないだろ~!?」

「中国に民営企業の時代が来る」と信じて、既に役所を辞めていた私にしてみれば、「二階に上がったら梯子を外された」気分だった。

(その④につづく)

編集部より:この記事は現代中国研究家の津上俊哉氏のnote 2025年1月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は津上俊哉氏のnoteをご覧ください。