30年経って公開された外交文書によって、1993年、当時の宮沢総理大臣が、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、中国の展望について、経済発展に伴い、民主主義が定着することに懐疑的な見方を示していたことが明らかになったそうだ(12月27日 NHKニュース)。
NHKの記事によると、宮沢総理が述べたくだりはこうなっている。
日米首脳会談では、アメリカで中国に対する貿易上の「最恵国待遇」を継続すべきか議論されていたことを踏まえ、クリントン大統領が「中国について、どう考えているか」と尋ねています。
これに対し、宮沢総理大臣は「当分の間は脅威になることはない。オリンピックを招致しようとしており、平和主義が貫かれていくと思う」と述べ、「最恵国待遇」の継続を支持しています。
一方、その後も平和主義が貫かれる保障はないとした上で「中国の経済が発展していけば、軍事的な野心を発揮していく余地は十分ある。中国人の生活水準が高まっていくにつれ、民主主義が定着していくという説もあるが、自分は懐疑的だ」と指摘しています。
結論だけ言えば「宮沢総理は炯眼(けいがん)だった」訳だが、この会談の頃から中国の仕事を始めて、今年でちょうど30年になる「中国屋」の私の胸中には、この見立てを巡って様々な思いが去来する。
以下、長文になりそうなので連載形式にするので、御用とお急ぎでない方は、ちょいと私の私的「中国この30年」論にお付き合いいただきたい。
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宮沢・クリントン会談が行われた1993年頃の中国はどんな風だったか。
1989年の天安門事件の後、中国の保守派は「改革開放政策なんぞ進めたから、あんな事件が起きた」と激しく批判した。大学や政府機関では民主化運動に参加した若者を片っ端から拘束したり、パージ(追放)したりする締め付けが行われ、改革開放政策も頓挫しかけた。
鄧小平は既に引退していたが、この流れに強い危機感を抱き、1992年2月「南巡講話」と呼ばれる地方遊説を通じて改革開放政策の堅持を訴える巻き返しに出た。国民の多くは「また貧乏で重苦しい昔に逆戻りか」と、鬱々としていたので、鄧小平の反撃開始をニュースで知って沸き返った。