ニーチェによれば、同じ「良い」と「悪い」であっても、強者の道徳と弱者の道徳では、その内実が全く異なる。前者が自己肯定の道徳であり、他者が他者否定の道徳である。
ニーチェは、弱者の道徳が強者の道徳を凌駕する過程を、ルサンチマン(怨恨)による「道徳における奴隷一揆」と呼んだ。そこに欧州のユダヤ人の存在が重なり合うことも示唆したため、後にヒトラーにも影響を与えたと考えられた。
強者の道徳が優れており、弱者の道徳が劣っている、ということではない。要は、立場が違うと、世界観も変わってくる、と言うことである。
1939年の第二次世界大戦勃発時に公刊されたE・H・カー『危機の二十年』は、この問題を扱った国際政治学の古典だ。第一次世界大戦の戦勝国と、敗戦国ドイツが、同じ現実を見ながら、全く異なる世界観を持ち、意思疎通ができなくなっていた状態を、鮮明に描き出した。
「ユートピアニズム」と「リアリズム」という概念の用い方が劇的であったため、後の時代には、「カーはリアリストなのか否か」といった問いばかりに関心が寄せられるようになったが、的外れである。直接的な影響をマンハイムのイデオロギー批判から受けていたカーは、いわばニーチェが『道徳の系譜』で論じた問題を、国際政治にあてはめて論じたのだった。
アメリカが強かった時代には、アメリカは、自らが信じる自由民主主義の価値を強く推進しようとした。それは力に裏付けられたものであっただろう。したがって自由民主主義の価値観にそっていないとみなす勢力に対するアメリカの否定的な行動は、明快なものであった。しかしいずれにせよ、自由民主主義という自らが信じる価値観を肯定する道徳的規準があった。
今日、アメリカは、イスラエルと一緒になって「テロリスト」探しに躍起である。自らの行動を批判する者は、たとえ自国の大学の学生であっても、「お前はハマスだ」というレッテルを貼る。自らの信ずる道徳的価値を説明する前に、粗雑なレッテル貼りを通じて他者を否定することを通じて、自らの立場の正当化理由にしようとするのは、弱者の道徳である。イスラエルやアメリカがこのような姿勢を取り続けているのは、自らの立場の正当性に弱みを感じているからだろう。
アメリカは衰退している。中国人やロシア人だけではない。世界の大多数の人々が、そのように感じている。アメリカは、強者としての立場に居座り続けているかのように振る舞っているが、現実には相当に焦っている。したがって弱者の道徳に訴えるような態度も駆使しながら、強者の立場にしがみつくこと自体を目的にした、居直りを始めている。
中国人やロシア人が冷戦時代に信じていた共産主義は、典型的な弱者の道徳に基づく思想であった。資本家階級が悪く、資本主義が悪いので、労働者が正しく、共産主義が正しい、と推論する。この弱者の道徳は、他者否定の上にのっかっているので、強者を除去して自らが責任を負う立場になると、持ちこたえられなくなる。共産主義は、革命が成就するまでは正論であっても、革命後に道徳的力を失ってしまうことが多い。
現在でも中国やロシアは、アメリカの覇権主義を強く批判し、グローバル・サウスは味方だと表明する点において、依然として弱者の論理に訴えるところがある。しかし、多元主義を目指して諸国の自主独立を尊重する、「ルールに基づく国際秩序」を否定して「国連憲章中心の国際秩序」を尊重する、という立場の表明において、より積極的な価値を打ち出している。彼らが強くなってきているため、自信を裏付けにして、そのような価値観の表明ができるのだろう。
二つの世界大戦の間に生きたE・H・カーは、苦悩の中で、二つの対立する世界観の様相を描き出し、国際政治学の古典を書いた。その後、亡命ユダヤ人としてアメリカに渡ったハンス・モーゲンソーが打ち立てた「政治的現実主義」も、強国群の現状維持派と新興国群の変革派の相違を洞察するなどの点で、カーと類似した視点も持っていた。だが総論としては、力に基づく一元的な世界観で、アメリカが敵に勝ちぬくことを助言しようとするものだった。
その後の国際政治学の理論は、よりいっそう一元的で平板になった。普遍主義を装いながら、単線的な概念又はデータを振り回すだけで、思想・価値観・世界観の闘争を描き出すようことは、一切しなくなった。
国際政治学などのアメリカ中心で打ち立てられた社会科学は、あらためて思想闘争の視点を取り入れる必要性に迫られている。昨今の世界情勢を見ると、そのように感じざるを得ない。
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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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