「保守主義的に行為する」ということが単なる形式的・反応的行為をいうのではなく、内容的にも形式的にもつねに十分に歴史的に性格づけることのできる(たとえ特定個人に接近する以前にそれ自体としての運命をもちえたにしても)思考・行為様式への意識的または無意識的な自己定位を意味することは、すでにきわめて明白である。

(マンハイム『保守主義的思考』森博訳)

いかにも古い思想書の訳文ですが、ポイントは「できる」ではないか、と感じました。マンハイムは保守主義を伝統主義と対比する形で紹介しますが、伝統主義とは要は「これが伝統だ」として定められている形式を、そのまま墨守するだけの態度であると。

逆に保守主義の場合は、ルーツを遡った際に「あぁ、これは最近ぽっと出で始まったやり方ではなく、どうも歴史の中から生まれて今日まで続いてきたもののように思えますね」ということにできれば、それを採用してかまわない。だから伝統主義よりも自由で主体的だし、逆に意地悪く言うと、あたかも伝統に則したもののように「見せかけられるなら」、実はウソでもかまわないという狡猾さもある(気がします。笑)。

平成序盤の日本の歴史学界では『創られた伝統』という本(本来は文化人類学の論集)に依拠して、「……というわけで、日本の伝統だと呼ばれている○○は、本当は近い時代に創られたものに過ぎず伝統じゃないんですねぇ(はい論破ドヤァ」みたいな論調が流行ったんですけど、それは伝統主義者への批判にはなっても、保守主義者には痛くもかゆくもなかった。

「本当に伝統だったかなんて、最初から問題じゃないですよ。いま、私たちはそれを『伝統』として意味づけることができるかだけが、問題ですから」というのが、おそらくは保守主義的なモラルのコアなのでしょう。

そこにどういった長短があるのか、特定の党派や思考様式に縛られないやり方で、「リベラル」に論じる対談になればと思います。多くの方にご視聴いただければ幸いです!

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年2月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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