この後に政府の対策委員会が「現在冷凍状態にある一般市民を凍死者と呼ぶことをやめ、目下冬眠中とその呼称の統一をはかる」のも、安部らしいウィットが効いています。コロナでは逆に、メディアがPCR陽性者を「感染者」のように呼び換えて、パニックを増幅する例が目立ちましたが。

たとえ危機が感染症から来るものであれ、国民を「お互いに疑いあおう」と煽る対策を採るべきではない。なぜなら、それによって社会的な信頼が失われる副作用の方が、感染を抑止する効果よりも遥かに大きいから。

思春期に読んだ安部公房の作品から、そうしたメッセージを学んで発信し続けた私に対して、さて大学で「人文学」なるものを教えていると称する人たちは当時、なにをしていたでしょうか。

彼らはふだん、「自然科学のように実利的な形で『すぐ』には役に立たないが、人文学にはそれとは別の価値がある。あらゆる物事を一から疑い本質を『深く』掘り下げる人文学の思考は、世の中の自明性が崩れた時こそ役に立つ」みたいなことを言っています。

で、まさに社会の前提が根本から覆る体験をしたコロナ禍の最中、彼らはなにかの役に立ってくれたでしょうか?

まさかとは思いますが、SNSで「医学の専門家の主張は疑わずにすべて従うのが当然! 大学教員という権威を持つ僕たちがマスク・リモート・ワクチンの徹底ぶりを披露しあい、見る人にも自粛の同調圧力を作り出すぞうおおおおおおお」なんてこと、してないですよね(笑)?

安部がこの作品の主人公を「詩人」と呼ぶのは、芸術的なポエムを詠めとか、意識高くクリエイティブに活動しろといった意味ではありません。一見すると自明な社会の前提の下で抑圧され、本当は存在するのに無視されているものに敏感であれ、と訴えるための呼称です。

喩えるなら自然科学とは平明な「散文」で、それはそれで大事。しかし散文だけでは取り零してしまうニュアンスを伝える媒体が「詩」で、人文学者はそちらのプロだということで、科学者とは別にポストが設けられてきたわけです、本来は。

だからいざというとき「詩人」になれない人文学者には、一文の値打ちもない。彼らの言う「自然科学とは異なる価値」を持つのは詩人のみであり、大学で人文学を修めたかは関係ない(実際に安部公房も、学部としては医学部卒でした)。

本人たちの自意識に反して、人文学者の地位はSNSで「勘違い」を起こすほどには不相応に高いのですから、もっと下げなければならない。むしろ彼らがこれまで詐取してきた「詩人」の栄誉を取り戻すところから、リベラル復権の道は始まると思います。

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年2月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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