人は祖国の防衛のために亡くなったウクライナ兵士の全ての名前を思い出すことは出来ないし、ガザ紛争で犠牲となったパレスチナ人の死者でも同じだ。彼らの死は「過去2年間のロシアとの戦いで亡くなった3万人の兵士」のカテゴリーに入るだけであり、パレスチナ人の死者も同じだ。戦闘を世界に配信するメディアは死者数と負傷者数を報じるが、戦争の悲惨さ、その規模を知る上で死者数が必要であり、負傷者数が求められるからだ。

死者の場合、そのプロフィールが分かれば、それだけ亡くなった人間への共感や想像力が湧いてくるが、数十万人の死者という統計上の死者には共感するということは難しい。何百万人の苦難よりも、1人の悲劇の方が人々の心を動かすものだ。だから、BBCなどのメディアは戦争報道では戦争に駈り立てられた兵士、軍関係者をピックアップし、戦争の事態を関係者の生の声で語らせる努力をしている。ある時は、戦争をドラマ化するといった批判の声も聞かれるが、視聴者の心を掴むのには特定の死、犠牲が不可欠だからだ。

例えば、ドイツ民間ユース専門局ntvは昨年8月3日、「若い医師の悲劇」という見出しの記事を報じた。25歳の医師、ウクライナ人のドミトロ・ビリィさんの話だ。ビリィさんは8月2日、ウクライナ南部へルソン市にあるカラベレス病院に初出勤した。その日、ロシア軍が病院を直撃し、勤務中のビリィさんは死去した。2日はビリィさんの初出勤の日であり、同時に最後の日となった。若い医師の死がソーシャルメディアで報じられると、その死を惜しむ声が溢れるなど、大きな反響を呼んだ。

特定の1人の死については、われわれは涙を流すことができるが、数千、数万人の死者について涙を流すことが出来るだろうか。スターリンがいったように、それは単なる統計上の数字であり、死者はその統計の中に組み込まれ、非人間化されてしまう。だから、「ウクライナで3万人の兵士が死亡した」と聞いても、驚くが、涙が流れることは少ない。

ウクライナ戦争ではキーウ近郊のブチャ虐殺事件、廃墟化したマリウポリなどを報じる時、特定の死者を取り上げて紹介するケースがある。死者がどこで、どのようにして亡くなったか、可能な限り特定化することで、死者を統計上の世界から救い出そうとする。

イスラエルはハマスの奇襲テロで亡くなったギブツのユダヤ人の名前、顔写真を重視するし、ハマスに拉致された130人余りのイスラエル人の人質でも名前と顔写真を掲げて、その解放を訴える。大量虐殺されたユダヤ人の歴史を有するイスラエルは死者が追悼される前に忘却されることを恐れ、死者の特定化に力を注ぐ。「600万人のユダヤ人がナチス・ドイツ軍によって虐殺された」という事実は人類に忘れることが出来ない出来事として刻印されているが、イスラエル人は倦むことなく600万人の1人1人を特定化し、その悲惨さを世界に訴えてきたわけだ。

共産革命で数億人が粛清され、虐殺されてきた。その1人1人の命に対して人類は涙を流さなければならない。それはスターリンに対抗するためではない。同じ悲劇を繰り返さないためにも、死者を可能な限り特定化することで涙を流し、死者を追悼しなければならないからだ。死者を統計上の世界から救済することは生きている人間の責任だ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年3月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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