日本維新の会は、保険診療の窓口負担を一律3割とする提言の素案をまとめた。これによって保険医療費は3~5兆円削減でき、社会保障費の膨張に歯止めをかけることができる。
少子化対策の財源 維新 高齢者の医療費窓口負担3割など提言案TVxSkYt60R #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) February 20, 2024
これは少子化対策の「支援金」とは別の話だが、3割負担で社会保障特別会計の公費負担が軽減されれば、その財源を少子化対策に転用でき、政府のいうように「新たな負担なしで」少子化対策の予算措置ができる。
これによって健保組合などから後期高齢者に仕送りされている「支援金」も減らすことができる。3割負担はボーリングでいうと、それを倒すとすべてのピンを倒せるセンターピンなのだ。
武見太郎がつくった開業医中心の医療システム今は70歳以上は原則2割負担、75歳以上は原則1割負担となっているが、このように医療費を老人割引する国は他にない。この奇妙な制度が生まれたのは、複雑な事情がある。その最初の主人公は武見太郎である。
武見は1957年から25年にわたって日本医師会の会長をつとめ、保険医総辞退などの強硬な戦術で、開業医中心の医療システムを作り上げた。この背景には、終戦直後の混乱期に医療インフラが十分でなかった時代に、各地で開業医がその役割を果たした面もある。
老人医療を無料化する健康保険法の改正は1972年、佐藤内閣でおこなわれた。このときも佐藤首相より大きな影響力をもっていたのは武見だった。これを受けた田中角栄は、1973年を「福祉元年」と名づけてバラマキ福祉を始めた。
これは東京都の美濃部知事をはじめ、全国の主要都市で「福祉と環境」を掲げて誕生した革新自治体への対抗策だった。美濃部都政は財政赤字で破綻したが、田中は高度成長で急速に伸びた健康保険料で国民健康保険の赤字を埋め、老人医療の無料化を続けた。
社会保障は、高度成長期に余剰資金を持て余していた自民党政権にとっては、国会を通さないで迅速にバラマキができる点ですぐれていた。その業務を行なう特殊法人が天下り先となり、グリーンピアなどの保養施設の原資にもなったため、官僚も田中の政策に協力した。