9は「学徒動員」により、教え子も含む学生たちが徴兵されて、「戦ひの道」に出陣する情景である。

「ますらを」は<益荒男>で、「立派な男」や「強く勇ましい男子」に限定する『広辞苑』や『基本古語』と、それに「兵士」を付加する『大辞泉』に別れた。なお『大言海』では、「勇士」(マスラタケオ)もあげられているが、「武勇の男」としての解釈に止められている。

要するに、「強く勇ましい男」「武勇の男」が戦地にいけば、「兵士」になるのだろう。「遠く高行く」は地理的な限界のある遠いところに行くということか。上の句「学びの道」と下の句「戦ひの道」がみごとに対応している。

講義や演習で親しく教えた学生が、「戦ひの道」に動員される時勢への悲しみはもちろん、せっかくの「学びの道」が理不尽な法律により強制的に中断させられたことへの怒りが、「今ふみこえて」から伝わってくる。

10もまた学徒出陣により戦地へ出発する若者への実感であろう。わずかな言葉しか交わせない中、学窓での思い出も語る時間もなく、教え子が戦地に向けて出発したのである。この1944年は、高田にとっても60歳の定年退職の年であったから、「風の如くに人 去りにける」には切実さがこもっている。

44年当時の高田は家族を郷里に帰して、京都で単身の生活を続けていた。京大定年後は民族研究所所長として研究所を彦根市に疎開させて、そこに通勤していた。「ただ学を廃せざる志だけを存した」(『学問遍路』:2)は、戦の時代への抵抗でもあった。

だから、前途有為な学生が、あいさつもそこそこに戦地に赴くことへの悲しみを詠んだのであろう。

しかし既述のように、1951年に「教職不適格」の判定が「原審破棄」で取り消されて、8月から大阪大学法経学部(直後に経済学部)教授に復帰した。

1952年(69歳)

その翌年には、

11.老いたれば 不朽のふみを よまむとす 白雲空に 行きのはるけさ

が詠まれた。大阪大学への復帰までの5年半のブランクが悔しいし、そのために69歳になった老いも避けがたいが、「原審破棄」により晴れて教職に戻れたことの喜びと研究への意欲と気力が31文字のなかに浮かんでくる。

「不朽のふみ」はケインズの『一般理論』であり、シュムペーター『経済発展の理論』であった(『ケインズ論難』:第1章)。

もちろん『資本論』は再読三読したはずである。なぜなら、その1年後には「労働価値説」や「利潤」、「使用価値」や「唯物史観」が論じられたからである(『社会主義評論』:第3部)。しかも1959年には、著書100冊の内から1冊を残すと明言した『勢力論』の改訂版を刊行した。その準備もまた行っていたと思われる。

自由に学問が出来て、教室でも講義ができる喜びが「行きのはるけさ」に込められていて、「白雲空に」象徴されている。自分が一番やりたいことを通して、ずっと遠い広い青空に再度羽ばたける歓びがそこにある。白い雲はかかっていても薄いはずであり、景色全体に陽光が差し込んでいるさまを彷彿とさせる。

これには京大時代の教え子である内海洋一の証言もある。

「昭和二十六年には、先生も、追放の取り消しを受けて、大阪大学経済学部に着任された。久しぶりに大学に復帰された先生は如何にも嬉しそうであった」(内海、1981:346)。

大阪大学もまた、設立当初の経済学部にとって不可欠な人材として、総長判断により当時としては定年を72歳に延長するという破格な決定をして、高田の手腕に期待した。

その成果は、京大時代の高田の教え子で、のちの阪大では同僚になった木下による「大阪大学経済学部および社会経済研究所の内容は、全く先生のご尽力によってでき上ったといってよい」(木下、1981:355)という評価に象徴される。

だから、阪大復帰の1年後には、

12.かえり見れば 身に受けし世の 恩愛も 六十九年 とし暮れむとす

という「恩愛」という表現で、最大限の「よろこび」と「感謝」が示されることになった。

それまでの生涯で繰り返す胃病に苦しみ、太平洋戦争後は公職と教壇から5年半も「追放」された69年間ではあったが、それらによる苦悩にもまして、復帰した大阪大学では経済学部長としての業務の傍ら、社会経済研究室を創設して、近代経済学の俊秀を集め始めた。

さらに、阪大文学部の社会学講義も受け持つことで、経済学部の講義と合わせて、「私の阪大の講義が此の二学部を通じたといふことは、私を幸福感に浸らせる」(『学問遍路』:99)とまで書いている。

阪大定年後の『望郷吟』(1961)で、歌人の窪田空穂が高田の「作歌」の基本には「心情の清純さ」の資質があることを見抜いたように、12の一首はその証明にもなりえる(窪田、前掲論文:33)。

そして古希を迎えた。

1953年(古希)古希祝賀の席上

社会学の親しき人人のつどひ(3月22日)

13.うぐいすは 朝より鳴きて 老いの賀に 友らの集ふ 宵をしらする

は「老いの賀」の日に詠まれたのであろう。うぐいすは春の季語だから、春のよき日に古希記念の祝賀会が催されたのである(写真1)。

写真1 古希記念写真(泉湧寺山内新善光寺)出典:高田保馬博士追想録刊行会、1981より転載

1936年に建てた塔の段下町の自宅周辺でも朝からうぐいすの声が聞こえて、社会学の親しき友人・知人が三々五々集まってくる夕暮れ時にもその声で祝賀会の開始を知らせたかのようである。

「朝」と「宵」のうぐいすは異なる場所で鳴いたのであり、朝から宵までの時間の流れもよく分かる。さらに、古希の祝賀会は「友らの集ふ」会でもあるから、久しぶりに自分のために集まってくれる「社会学の親しき人人」との祝賀会を、うぐいすの二度「鳴き」に託して喜んでいる姿が浮かんでくる。

そしてこの時代の学界の慣例として、この祝賀会の翌年には古希記念の『高田先生古希祝賀論文集』(有斐閣、1954)が刊行された。1951年「原審破棄」からわずか3年後に当時の社会学を担っていた豪華メンバーが寄稿した論文集である。

祝賀会と同様その刊行はうれしかったに違いない。ちなみに、寄稿者は大正生まれの福武直を除けば、全員が明治生まれであり、具体的には岩崎卯一(1891-1960)、林恵海(1895-1985)、綿貫哲雄(1885-★)、大道安次郎(1903-1987)、難波紋吉(1897-★)、臼井二尚(1900-★)、岡田謙(1906-1969)、大山彦一(1900-1965)、黒川純一(1901-★)、蔵内數太(1896-1988)、牧野巽(1905-1974)、古野清人(1899-1979)、福武直(1917-1989)、小松堅太郎(1894-1959)、小山隆(1900-1983)、小山栄三(1899-1983)、新明正道(1898-1984)、姫岡勤(1907-1970)であった(★はいくつかの資料を当ったが、特定できなかったことを示す)。

特に『祝賀論文集』は、高田を先頭にした草創期の社会学者からだけの記念すべき到達点を示したものであった。「あとがき」を書いた編集代表者の小松堅太郎は九大時代の助手であった。

「あとがき」で小松は「有力な人々が二三・・・・・・執筆者の中から脱落した」と書いているが、その後の社会学説史を知っている立場からすると、戸田貞三、鈴木榮太郎、有賀喜左衛門、尾高邦雄なのだろうと推測できる。なぜなら、執筆者にはほぼ明治生まれの日本社会学の第一世代が揃っているからである。

このうち、鈴木榮太郎が寄稿できなかった理由は、この時期は北大病院に結核の治療・療養のために入院していたからである。

1947年に北大法文学部が創設された際に初代の社会学講座の教授として赴任した鈴木は、まもなく結核を発症して、10年後に定年退職するまで北大病院に入退院を繰り返すことになった。講義や演習も体調がいい時に行う程度であり、しかも得意とする社会調査は行えず、助手や院生に肩代わりを頼んで、その結果を使いながらの『都市社会学原理』の原稿を毎年1章ずつ書き進めるという状態にあった。そのため、高田保馬の古希記念の論集には寄稿できなかったのだろう。

そして世に有名な、

14.かえりみて この年月の はろかなれや 学びの道は ただにけはしく 

につながる。

明治生まれの草創期の社会学者たちから古希の祝賀会に招かれ、翌年の『祝賀論文集』の話も聞いていたはずの高田は、30歳前後からの大学教師の40年間を振り返っての述懐といえる。

何度も入院した日々、大著『社会学原理』と『経済学新講』(5巻)を始めとしたそれまで刊行した著書80冊の思い出、河上肇との15年にも及ぶマルクス主義をめぐる学術的論争、4人の子のうち2人が早世してしまったことの悲しみと苦しみ、高田38歳の時に最愛の母親を亡くしたこと、そして終戦後5年半にも及ぶ「追放」期間の辛さ、そして阪大への復帰などが、走馬灯のように脳裏を駆け巡ったはずである。

「はろかなれや」の「や」は感動を表わす係助詞であり、「遥かに遠いなあ」という感慨をあらわす。遥遥(はろばる)にでも遠いさまをいう。何しろ長い年月、すなわち40年間の学究生活だったのであり、しかもいろいろな「けわしい」山坂がいくつもあったのであるから。

1955年(72歳)博多より佐賀へ

しかしその後は故郷に帰れば、

15.故里は 空に流るる 雲までも 親しかりけり 老い深まれば

が繰り返されるようになる。季語はないが、この天地自然の流れは夏ではなく、秋にふさわしい。空の雲に親しさを感じるのは夏でも冬でもない。それは下の句「老い深まれば」が発する寂しさによる。その一言に、老いる自分を見守る視線が空行く雲に絡んでいる。高田にとってのふるさとは、いつ来ても「親しかりけり」なのである。

『基本古語』での「けり」は、「過去・現在にかかわらず、話主が意識しないでいた事がらに、はっと気づいた意を表わす。たいていの場合、感動の気持ちを伴う」と説明されている。心は穏やかに、ふるさとの自然に同化した。

1960年(77歳)立秋朝夕

『望郷吟』の最後の年は1960年であり、

16.初秋の あしたの風に 胸はりて 吹くにまかする 老の雄心

が詠まれている。

「老い」の嘆きや諦観の歌が多かった高田だが、珍しく「雄心」が読み込まれている。季節の変わり目である初秋の「あした」(朝)の風は、やや強いが爽やかである。窓からの風を胸いっぱい吸い込んで、雄々しい心持になったことが「初秋」「あしたの風」「胸はりて」に助けられながら、力強く表現された。

前年には積年の課題であった『勢力論』が改訂されて、出版されたことがその理由の一つにあげられる。さらに喜寿祝賀記念のお祝い会が1960年12月27日の夜に開かれた。高田77歳の誕生日その夜であった。高田はうれしかったであろう。「老いの雄心」は秋だが、その年の暮れの誕生日にも「雄心」は健在だったはずである。

その4年後には、経済学方面の関係者だけで総勢26名が執筆し、400頁を超えた『分配理論の研究』(有斐閣、1964)が高田にささげられた。そのあとがきに4年前のお祝い会の模様が記されている。

「多くの知友門下生がこの祝賀会に参加し、先生御自身も旧作の短歌を読みながら長い研究生活を回顧されるなど、思い出ふかい一夜であった」(『分配理論の研究』あとがき)。

なぜ「分配理論」に限定されたといえば、ライフワークの『勢力論』で主張されたように、経済学上の「勢力」が強く関連するのが、「生産」でも「労働」でもなく「分配」なのだからであった。

いわば高田「勢力」論の応用経済学として、第一線の総勢26人の経済学者が、自らのテーマで執筆した原稿を喜寿記念として寄稿して『喜寿祝賀記念論集』として刊行されたのである。

経済学関係者だけになったのは、13で触れた『古希祝賀論集』が社会学者だけの寄稿をまとめていたからである。喜寿祝賀記念は京大関係でいえば、青山秀夫や森嶋通夫をはじめ阪大に集結したたくさんの門下生、それに中山伊知郎と安井琢磨までが執筆したという豪華版であった。

ここでもまた「老いの雄心」は奮い立ったであろう。そして晩年の高田にも、「老い」に伴う「生きるよろこび」としての「生きがい」が強く感じられる日々が確かにあったと思われる。

(次回につづく)

【参照文献】

青山秀夫編集代表,1964,『分配理論の研究 高田保馬先生喜寿祝賀記念』有斐閣 神谷美恵子,1966,『生きがいについて』みすず書房. 金子勇編,2003,『高田保馬リカバリー』ミネルヴァ書房 金子勇,2014,『日本のアクティブエイジング』北海道大学出版会. 木下和夫1981,「高田保馬先生を偲ぶ」高田保馬博士追想録刊行会編『高田保馬博士の生涯と学説』創文社: 347-356. 窪田空穂,1961,「高田博士の第三歌集に寄す」高田保馬『望郷吟』日本評論新社:1-35. 小松堅太郎編集代表,1954,『社会学の諸問題 高田先生古稀祝賀記念論文集』有斐閣. 高田ちづ子,1981,「父のこと」高田保馬博士追想録刊行会編『高田保馬博士の生涯と学説』創文社: 445-453. 高田保馬,1949=1971=2003,『社会学概論』ミネルヴァ書房. 高田保馬,1940=1959=2003,『勢力論』ミネルヴァ書房. 高田保馬,1955,『ケインズ論難』大阪大学経済学部社会経済研究室. 高田保馬,1956,『社会主義評論』自由アジア社. 高田保馬,1957,『学問遍路』東洋経済新報社. 高田保馬,1961,『望郷吟』日本評論新社. 高田保馬博士追想録刊行会編,1981,『高田保馬博士の生涯と学説』創文社. 内海洋一,1981,「恩師高田保馬先生と私」高田保馬博士追想録刊行会編『高田保馬博士の生涯と学説』創文社: 336-347. 吉野浩司・牧野邦昭編,2022,『高田保馬自伝「私の追憶」』佐賀新聞社.

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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