(前回:高田保馬の「感性」と「理性」④:『望郷吟』にみる「ふるさと」)
老いと生きがい連載第5回目は、「生きがい感」を「生きるよろこび」(神谷、1966:26)として、「老い」を自覚してそれを和歌に託した高田の心情に迫ってみよう。
社会学でも「生きがい」は高齢者の研究でよく使われる概念であり、便宜的に「生きるよろこび」や「生きる楽しさ」と互換的だとした研究が大半を占める。
「生きるよろこび」は家族、親密な他者、友人・知人などいわば社会関係資本との関りから得られる。さらに、「自己達成感」とも深く結びつくので、他者から依頼された業務の遂行、および自らが設定した仕事や課題の解決などによっても「生きるよろこび」は感じ取れる。とりわけ業務の遂行や課題の解決は、何かを成し遂げたという業績(achievement)が確認できるために、強い満足感の源泉にもなる(金子、2014)。
高齢期は「老・病・孤」に直面する職業や仕事の有無に関わらず、高齢期になると加齢による「老・病・孤」に直面する。これは誰にも等しく訪れるので、いかにそれらに対処するか、どのように取り組むことが「生きるよろこび」につなげられるかで、高齢期の生き方にも差が出てくる(同上:第三章、第四章)。
さて、高田は「老い」をどのように受け止めて、和歌に詠んだか。
1943年(60歳)1.老骨に しみ入る夜寒 覚ゆれど 生命を惜み 書きつがむとす
『望郷吟』は1943年刊行であり、その冒頭近くにこの一首が置かれている。高田60歳の秋である。生誕120周年記念として私が『高田保馬リカバリー』(2003)を準備していた時に、当時芦屋市にお住まいだった高田の長女関明子さん宅へお邪魔したことがある。
インタビューで一番記憶に残ったのは、高田が朝起きてすぐに布団のなかで腹ばいになりながら、前日からの原稿の続きを書いていたという話であった。そのため時にはインクがこぼれて布団や畳を汚すので、母が苦情を言っていたが、それでも止めなかったと聞いたことが印象深く残っている。
これには高田三女のちづ子氏の証言が残っている。「ふとんの周囲は本と紙でおおわれ、度々のインクのそそうで青々と模様の出来たたたみは殆ど見えぬほどである。シーツもふとんも度々インクで染められ、その時の父のあわて様が目に浮ぶ」(高田ちづ子、1981:451)。
同じ情景が自身の『学問遍路』(1957)にも描かれている。
「暁眼をさますのは平均して四時頃である。三時の時も五時近いこともある。・・・・・・(中略)筆をとって前日のつづきを書く」(同上:30)。
この懸命な努力の結果として、生涯著書100冊、論文500篇が生みだされた。一冊ないしは一篇の準備には体力気力はもちろんだが、史料や資料さらに内外で参照したい文献が手元にあるかどうかなど、さまざまな苦労が多い。その中で「老骨」に応える寒い部屋の中で、前日の原稿の続きを朝4時に目が覚めてからすぐに書くというのである。
「生命を惜しみ」書きつぐ「生命を惜しみ」には実感がこもっている。なぜなら、高田は五高での肺炎による病気休学による進級の遅れからはじまり、顕彰会の年譜によれば、60歳までに主に「胃疾」を原因とする1か月以上の病気入院が実に6回もあるからである。
それでも小康状態の時には講義にも原稿にも取り組んでいた。1926年なので九大教授として三日月村から通勤していた時代になろうが、自伝『私の追憶』には「私の体力はなお衰えている。時々、口中からも胃からの血の点がでる」(『私の追憶』:174)の記載がある。「老骨、夜寒、生命」が結びついた悲愴感があるが、「書きつがむとす」に強い意志が感じられる。
1944年(61歳)2.老いづきて ねざめは早し 水鳥の あかつきの声 未だきこえず
がある。今では70歳以降になるかもしれないが、高齢者は早寝早起きなので、私もまたこの気分はよく分かる。
既述したように、この時期の高田は朝4時には目覚めるのだから、まだ聞こえない「水鳥のあかつきの声」よりも早いことになる。「水鳥」の季語は冬だから、冬の早朝起きて数分もたたないうちの観察であろう。
そしてその後には、前日の続きを「書きつぐ」ことが待っている。そのようなみずからの日常の一コマのスケッチが自嘲気味に詠まれていた。
「老いづきて」は「つく」なので、『基本古語』の通りに、「近づく」ないしは「属する」として解釈しておこう。前者であれば、「年寄りに近づいたので」となり、後者であれば「年寄りに属すようになったので」と読み取れる。
1945年(62歳)終戦の年の冬には、
3.雨今宵 雪とやならむ くりやべに 洗えば老いの 手はかじけつつ
が詠まれた。
佐賀県といえども冬の季節に雪が積もることは稀ではない。暮らしていた「百鳥居」は大きな家であったから、火鉢だけの暖だけでは部屋は寒かったに違いない。大川市の私の家でも1960年代までは、冬には火鉢しかなくて、当然ながらしもやけやアカギレは普通にみられた。蛇口からは温水ではなく、冷水しか出ないので、手を洗えばすぐにかじかむのである。
歌では、雨が降っていたが、夜になると雪に変わりそうな空模様であり、その寒さのためにまたは洗い水が冷たいために、手が凍えて思うように動かない状態を描いている。
「くりやべ」は「くりや」で、台所を意味する。なにしろ終戦直後の時代なので、台所もふくめて至るところですき間風が吹き抜け寒かったにちがいない。「雨、雪、洗い水」が組み合わされて、かじかむ「老いの手」が浮かび上がる。暖房のない時代の冬にみられた生活の一面である。
1946年(63歳)翌年にも、
4.自らの びんの白さは みえねども 会ふ友の皆 老いにけるかな
として、自らの老いを友の老いで確認する歌を作っている。
確かに頭の左右の「びん」に白髪が増えたとしても、鏡がなければ何も見えない。これは誰にでも分かることなので、それを上の句としたところに、珍しい高田の諧謔が伝わってくる。
かりに「会ふ友」がほぼ同じ年代であれば、その友の白髪やしわによって、逆に自らの「老い」を知ることになる。しかも「皆」が付加されていることから、複数の友すべてが老境にあるという安心感と諦観が読みとれる。実感をもとにした巧みな表現に妙味がある。
1948(65歳)しかし、
5.老いぬれば しばしの時も 惜しまるれ まして花散る 春の夕ぐれ
では、「花散る春」でも「老いの自覚」の一面として、残り時間が気にかけられるようになった。
なぜなら高田は、1946年の12月「教員不適格」が京大経済学部教授会で判定されていたからである。その期間は「原審破棄」で取り消された1951年6月までの約5年半続く。しかしこの時期に実に単行本を24冊刊行した。
ただそのような旺盛な執筆活動の中でも、老いによる時間との競争が感じられるようになった。それが上の句「しばしの時も 惜しまるれ」に表されている。
上の句は自らの「老い」を理由として時間の大切さが謳われているが、下の句では桜が短い期間に散ってしまうことに視点が移動している。「花散る」時間も短く、「夕ぐれ」時もまたすぐに暗くなることで、「老い」がもたらす余生の短さと合わせて詠まれたことにより、時間も命も花も「惜しむ」という気持ちが確実に伝わってくる。
同じ年の、
6.つめたきは 人の心と 思ひしを 老いて今知る 世の暖かさ
において、「つめたき」は5でのべた京大経済学部教授会(の構成員)による「公職」と「教壇」からの「追放」をさすのであろう。
名著『社会学概論』(1949=1971=2003)の分類を使えば、京大経済学部教授会は派生社会(ゲゼルシャフト、アソシエーション)であり、「個人の上にもっとも顕著なる作用をおよぼしたるもの」(同上:101)はまさしく高田個人の偽らざる実感であったはずである。
高田は23歳から30歳まで京都帝国大学文科大学・大学院に在籍して、34歳まで法科大学でフランス語経済の購読を受け持ち、それから10年ほどの期間は広島高等師範教授、東京商科大学教授、九州帝国大学教授を歴任して、45歳で京都帝国大学教授を兼担し、46歳から河上肇の跡を継いで「経済原論」の専任教授になる。
54歳で経済学部長になるものの、1年後の55歳にときに「経済学部長を免ぜられる」(顕彰会、前掲書:243)。その後60歳になる誕生日1944年12月27日の3日前に退職して、46年には京都帝国大学名誉教授になった。
京都への愛着がなかったそれほどに長い期間勤め上げた京都帝国大学であったが、京大は「あれは追放の人である、とレッテルをはられることになった」(『学問遍路』:64)の決定を下した「派生社会」としての組織でもあった。
そのためか、75歳の時の『週刊エコノミスト』「私の追憶」でも、若い頃も「京都と京都大学との愛着をあまり感じなくなった」(『私の追憶』:45)と書き、専任教授になってからも「京都を住みよいところとも、なつかしいところとも思わなかった」(同上:221)とのべている。
三日月村という「世の暖かさ」に救われた代わりにここでも救いは「世の暖かさ」であった。追放中の身という「境遇には負かされぬ」を支えに、ふるさとの三日月村で「朝起きてから昼飯までは机に向ふ。昼から後に畑に出る」(『学問遍路』:47)「勤勉さ」を村人が称えてくれた。それを高田は「有りがたいほうび」(同上:31)とした。
すなわち、『社会学概論』にいう「基礎社会」(ゲマインシャフト、コミュニティ)からの賛歌なのであった。「追放」されて帰郷した高田にとって、「基礎社会」の代表である村人との交流や評価こそがその支えになっていた。
「接触の相手が少く、しかも数代を通じて変化せず、従って信頼と依存と親和と理解といよいよ深からざるをえぬ」(『社会学概論』2003:160)。
ここには若い頃から60歳まで長く暮らした京都という大都市と京大というゲゼルシャフトに対して、生まれ故郷の三日月村に教授の身分で時折に戻ってきてはいたが、現在は「追放」中という無職での村の暮らし(ゲマインシャフト)が対照化されていて、後者への熱い思いがうかがえる。
上の句の「つめたき」と下の句の「暖かさ」が対応して、「人の心」と「世」もまた対になっている。「暖かさ」を「老いて今知る」高田は、ふるさとに終生守られたのである。
翌1949年66歳の高田には、筑後大川町の
7.相老いて 今日に至れる 喜びを 云ひつつ行けば 風浪の宮
が詠まれている。
この大川町は1954年に周辺町村と合併して大川市になった。合併時点で私は5歳であった。
風浪の宮とは地元では「おふろうさん」と呼ばれている風浪宮のことで、約1800年前に創建されたと伝えられている神功皇后ゆかりの神社である。神功皇后が新羅外征からの帰途、皇后の乗った船の近くに白鷺がこつ然と現われ、白鷺が止まった樟のあるところに社殿を建てたのが風浪宮の起源とされている。
高田は私が生まれた49年のある日に、「相老いて」すなわち老境にさしかかった妻と一緒に参拝に行ったのだろう。
5でのべたように、51年までは三日月村の生家で単身暮らしだったので、この折には京都からきぬ夫人が来られて、一緒に大川に出かけたものと思われる。当時は国鉄佐賀線が佐賀駅から鹿児島本線の瀬高駅(福岡県瀬高町)まで開通していた。まず地元の久保田駅で汽車に乗り、佐賀駅で乗り換えて、筑後川の昇開橋を渡ってすぐの大川町若津駅で下車して、徒歩で50分かけて風浪宮に行ったのであろう。おそらく一日がかりの小旅行であったはずである。
「喜びを云いつつ行けば」には交通機関の介在は感じ取れない。ゆっくり歩きながら、家具の町の景色と三日月村の農村と同じ水田地帯の景観を見ながらの神社詣であった。
風浪宮は、勝運の道を開いたという少童命(わだつみのみこと)を祀ることから、戦国時代の武将・蒲池鑑盛が厚く信仰し、本殿を再建した。その本殿は国の重要文化財に指定されていて、勝運守護、開運の祈願社として、江戸時代の久留米有馬藩主をはじめ、現在にいたるまで広く信仰を集めている。
公職と教壇から「追放」されていた高田が、夫婦同伴で「勝運守護」や「開運の祈願」のために出かけたというよりも、その歌の前に、
8.人の世の 戦こえて 生きのびし 幸を云ふ ならぶひとみは
があることからすると、太平洋戦争中に所長を務めていた民族研究所の彦根疎開で苦労したことや、戦時中の教え子の学徒出陣などの悲しみや苦しみを乗り越えてきた「喜び」や「幸」なのであろう。
なお、彦根疎開での苦労は『学問遍路』の冒頭に詳しい。また、戦時風景も、
9.学びの道 今ふみこえて ますらをや 遠く高行く 戦ひの道
10.一言の 別れ惜しまむ ひまもなく 風の如くに人 去りにける
などが1944年に詠まれている。