この問題でも遠山は反対論を貫いた。芝居座はこれまで何度も焼けているが、そのたびに跡地に再建させているので、 撤廃は論外であると説いている。加えて、辺鄙な場所への移転についても、芝居関係者とその周辺住民が生活困難になるという理由から反対している。コロナ禍でこのような意見を述べた気骨ある政治家がほとんど存在しなかったことは、つくづく残念である。

水野は、歌舞伎が風俗を乱す〝感染源〟であると捉えていたので、芝居町を市中から隔離して〝感染〟を防ごうと企図した。これに対し遠山は、歌舞伎役者が一般人と異なることは誰もが知っていることであり、市中近くに芝居小屋があっても悪影響はないと主張する。

当時の歌舞伎役者はいわばファッションリーダーであるので、町人が歌舞伎役者の真似をしないという遠山の主張には若干無理がある。ただ、現代の芸能人と違って、当時の芸人の身分は低く、真っ当な稼業ではないと思われていた。

歌舞伎役者は憧れの対象である一方で「河原者」として卑賎視されることもあったから、遠山の強弁が成り立つ余地もあった。もっとも水野に言わせれば、本来身分卑しい歌舞伎役者の真似を町人がしていることが問題なのであるが。

江戸幕府12代将軍徳川家慶も遠山の意見に理解を示したが、結局、翌天保13年正月には水野が猿若町(現在の浅草六丁目)への移転を強引に決定した。

それだけでなく同年7月には演目の規制も行い、淫らな内容の芝居を禁じ、勧善懲悪を主題とするよう強制した。まさに江戸の〝ポリコレ〟である。

このように、老中首座の水野忠邦と江戸北町奉行の遠山景元は都市政策をめぐって激しく対立してきた。けれども遠山は孤軍奮闘していたわけではない。江戸南町奉行の矢部定謙も遠山と連携して天保の改革に反対した。

水野は、物価高騰の原因は、カルテルである株仲間による商品価格の吊り上げにあると見た。そして株仲間を解散させて流通・売買を自由化すれば物価は下がると考えたのである。

これに対し矢部は、物価高騰の最大の要因は、財政赤字を補填するために幕府が貨幣改鋳(貨幣の金銀の含有量を減らす)を行ったことにあると説く。悪貨への改鋳という自らの不正を棚に上げて、商人に物価高の責任を転嫁することは間違っている、というのだ。

加えて矢部は、遠山と共に風俗取り締まりにも反対していたらしい。このことを示すのが、天保14年(1843)に出版された歌川国芳の浮世絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」である。

この図は一見すると、平安時代の武士である源頼光とその家臣である四天王が土蜘蛛という妖怪を退治したという伝説を題材とした浮世絵である。しかし8月頃から、実は天保の改革を風刺した絵である、という評判が立つようになった。

源頼光が将軍徳川家慶、家慶の左にいる沢瀉の紋様の袴を着た卜部季光は老中首座の水野忠邦である(水野家の家紋は沢瀉)。残りの四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光)はそれぞれ真田幸貫・堀田正睦・土井利位の三老中を指すという。

頼光らを狙う妖怪たちは、歌舞伎役者の市川海老蔵・噺家(落語家)・隠売女(非合法の売春婦)・女浄瑠璃・女髪結など、水野の風俗取り締まりで弾圧された人々に見立てられていると解釈された。

そして頼光に迫る土蜘蛛は、その頭部の斑点や瞳が矢部家の家紋(三つ巴)に似ており、また土蜘蛛が持つ敷布の形が駿河の富士山に似ている(矢部は駿河守)ことから、矢部定謙の暗喩だと噂された。

天保12年12月、矢部は5年も前の些細な失態を蒸し返され、町奉行を罷免となる。水野は改革の〝抵抗勢力〟である矢部をむりやり排除したのである。天保の改革に反発する江戸庶民は、水野に逆らって失脚した矢部に同情した。「源頼光公館土蜘作妖怪図」の評判はそのことを良く表している。

だが、今、矢部の名を知る者はほとんどおらず、「遠山の金さん」との知名度は雲泥の差である。これは、遠山が失脚の危機を乗り越え、江戸三座移転問題で最後まで反対の論陣を張り、芝居関係者から深く感謝されたからであろう。遠山の死後、名奉行遠山の活躍を描いた講談・歌舞伎が作られ、これが時代小説・時代劇へと受け継がれ、現在に至っている。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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