前回は、天保の改革を主導した幕府老中の水野忠邦が、江戸が寂れても構わないという徹底的な倹約令・風俗取り締まりによって物価高騰を押さえようとしたこと、これに対して江戸北町奉行の遠山景元が江戸庶民の暮らしを守るという観点から反論したことを解説した。両者が対立した具体的なテーマの一つが、下層町人の娯楽である寄席の取り締まりであった。
(前回:江戸幕府の物価対策①:水野忠邦の過激なデフレ政策)
寄席全廃を唱える水野に対し、遠山は必死に抵抗した。この論争は天保12年(1841)11月に始まり、翌13年2月までもつれこんだ。結果、全廃は免れたが、211ヶ所の寄席が15ヶ所に激減し、演目も民衆教化に役立つ講談・昔話の類に限定された。
水野の弾圧の矛先は上層町人の娯楽である芝居(歌舞伎)にも向かった。当時江戸には、 堺町の中村座、葺屋町の市村座、 木挽町の森田座の三座があり、江戸三座などと呼ばれた。たびたび火災に遭ったが、そのたびに再建された。ところが天保12年10月に三座のうち、堺町と葺屋町(ともに現在の日本橋人形町三丁目あたり)が焼失すると、水野はこれを奇貨として芝居町の取り潰し、ないしは移転を提起したのである。
水野は、芝居小屋や料理茶屋が林立する盛り場の風紀の乱れが、市中の風俗に悪影響を与えている、と考えていた。この時期、歌舞伎は流行の最先端であり、歌舞伎の演目や衣装は江戸市中の風俗に大きな影響を与えた。
水野は歌舞伎を「風俗の害」とみなしていた。たとえば、歌舞伎役者の身分不相応に華美な暮らしが、彼らに憧れる町人たちに〝伝染〟していると分析する。水野は歌舞伎バッシングにより江戸っ子を威圧し、〝新しい生活様式〟を植え付けようとした。「不要不急」のエンタメ業界が目の仇にされるあたり、数年前のコロナ禍の「自粛」に通ずるものを感じる。