「明暦の大火(1657年)で焼失した江戸城の天守閣を再建しては」というプロジェクトに、菅義偉前首相がインバウンドの目玉になるとして前向きな発言をして話題になっているので、解説記事をプレジデント・オンラインに書いた。

江戸城と天守閣についての詳細は、記事を見てほしいが、ここでは、神宮外苑でも話題になっている都心の優良地の有効活用という視点からも少し見てみたい。

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本丸・二の丸・三の丸があった区域は、東御苑と呼ばれているが、天守台がぽつんとあるのと、香淳皇后のために建設された桃華楽堂、雅楽などを演奏する楽部、文献調査や陵墓の管理に当たる書陵部の施設、皇室のお宝を展示する三の丸尚蔵館、皇宮警察などが、これも低い密度であるのみだ。

江戸時代、皇居外苑は譜代大名の屋敷が並んでいた。それを明治維新後は、二重橋の前あたりは、閲兵式などが行える広い広場にされ砂利が敷き詰められ、その外側には、松などがまばらに植えられているだけの広場となり、和田倉門に近いあたりには噴水公園などがあるが極端に密度が低い利用状況で自然環境保護にも何も役に立っていない。

皇居前広場など外苑は、単なる広場などでなく、都心の一等地として経済的にも合理的な活用を図ることが適当だ。繰り返すが、あれは閲兵式用の空間なのであるが、そういう使い方はないだろうから、一部はパレードなどする祝祭空間にしてもいいと思う。

天皇ご一家の住まいである現御所や昭和天皇の御所である吹上御所があったのは、西の丸の西にあって半蔵門側になる吹上御苑である。もともとは大名屋敷だったが、江戸時代後半には庭園となり防火のための緩衝地帯になっていた。

戦前はゴルフ場にも使われていたが、戦後は昭和天皇の意向で自然のままにということで武蔵野の昔に返ったような広大な空閑地になっている。

それでも、戦前の明治宮殿は、お住まいと諸行事が行われる公式スペースが一体化していたが、いまは離れてしまって、天皇ご一家は吹上御苑におられ、新型コロナの時期には、大学生のはずの愛子さままで含めてほとんど外出されることすらなかった。