NHKアーカイブスより焼畑の光景。アマゾン(南米)で行われる事実を摘示し、日本の一部出版社との類似を意見論評します

思えば私が大学院に在籍した2002~07年、平成の中期には社会学とカルチュラル・スタディーズが大ブームだった。眼前の「いま」っぽい事象――ケータイ、インターネット、ひきこもり、ニート、キレる若者、右傾化、非正規雇用、格差など何でもいいから『○○の社会学』のように銘打てば、まだ専門書のない若い研究者も一般向けの新書が出せて、話題になる。そんな空気が自明のもので、ずっと続くかのように思われていた。

そして『平成史』でも触れたが、当時は団塊の世代が定年退職を迎え、人手不足になるとする「2007年問題」が世を騒がせていた。国公立を中心に大学は定年を延長し、教員の退官時期を先送りしたため、実際に世代交代のピークが訪れるのは2012年頃だから、それより前に「話題の著者」になった経験を持つ人なら、どこかの研究機関にポストを得ることができたと思う。

当然ながら、こうした人口動態の転換は一度きりで、かつ元には戻らない。だから平成半ばのノリで、「とにかく本を出しちゃえばなんとかなるって!」とばかりに未熟な書き手を唆す出版社は、無知かさもなくば悪辣なことをしている。

ちなみにその頃、歴史学者をしていた私の場合、2007年の10月に正規の大学准教授となり、2009年には博士論文を学術書として公刊して、2冊目としてやはり注つきの書物を出すことも同年のうちに決まっていた。

しかしその状態で、大学で行っていた授業の講義録を著書にしようとしたところ、脱稿した上で企画書を送ったにもかかわらず4社の新書部門から断られた。そんなにも学者としての研鑽や実績は、出版の当否を決める上で軽く見られているのかと、「お祈りメール」が届くたびに悔しく思ったものである。

しかし逆にいうと、「先生の貴重なご専門に基づき……」と持ち上げはしても、学問としての内実なんて実際にはどうでもいいと思われながら大半の書物が作られていることを、私ほどよく知っている著者もいないので、後に病気で大学や学者を辞めてもまったく気にならず、かつ出版にあたってなんの不利益もないのだから、人生にはなにが幸いするかわからない。

いま必要なのは、誰が口にしても「同じように正しい」ものを探す発想を、やめることだ。正しさが鋳型のように「どの人が使っても同じ」ものになるとき、読者はかえって「だったら威厳のある人が、上からガチャッと押してほしい」とする、家父長的で正しくない欲求を持ち始める。

むしろその著者が、本人なりの人生の中で発言したたことで意味を持つ「個的なもの」が尊重されるときにこそ、まだ経験が浅く権威を持たない書き手が発表する文章にも、初めて十分な敬意が払われてゆくだろう。

逆に「私としてはこう思う」という私的な領分を圧殺し、ひとつしかない結論と語り口に嵌めこもうとする「正しさ」があるのなら、そんなものは本音では誰も読みたくないので、別に要らない。たとえばチラシの裏にでも書かせて、出版しないことがなにより大切である。

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年2月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?