先月1月の末日に、思想誌『ひらく』の第1期最終号となる10号が刊行されました。かねてお知らせしたとおり、私は「『お母さま』としての天皇」というタイトルで、太宰治の『斜陽』をめぐる論考を寄せています。
もともとは前回に続いて、太宰をテーマに何か記事をと思っていたのですが、同誌の編集後記を見て、それどころではないらしいことに気づきました。なので、以下は急遽、別の話を。
『ひらく』誌の編集長は、むろん同誌を世に送り出す過程での自身の反省を踏まえた上で、こう書いている。
刊行の目的の一つが「まだ日の目を見ていない若い才能を発掘して、世に紹介する」というものでした〔が〕……人文系アカデミズムで、これという若い才能には終に出会えませんでした。 (中略) いったい昨今の人文系アカデミズムはどうしてこんなに詰まらなくなってしまったのか? なぜ無意味な論調の低レベルな論文ばかりが出回るようになってしまったのか?
(「編集後記」『ひらく』10号)
私も最近、若い世代に指摘されて「はっ」と目を見開く体験が減り、逆に昔も聞いたのと同じ話を繰り返されるような徒労感を抱くことが増えた。しかし特定の世代だけが殊更に知性が高かったり、低かったりするはずはなく、実際に編集長氏も若手以外の著者に目を転じた際にも、読む価値のある議論に乏しいのは同様だと補っている。
私の実感では、ものごとには「正解がある」とする発想の高まりが、そうした人文学の衰弱と、若い書き手が世に出にくい苦しさの根底にあると思う。前に使った語彙で言うなら、「順張り」志向ということになろう。
一見すると、正解があった方が文章は書きやすい。コロナはこう予防するのが「正しい」。ウクライナ戦争ではこの立場が「正しい」。エコロジー的にはこうした消費が「正しい」。トランスジェンダーはこう捉えるのが「正しい」……といったフォーマットが決まっていれば、誰でも間違うことなく論客になれる。それこそChatGPTでもなれる。
しかし、誰が口にしても同一の内容となる(べき)「正解」が存在するのなら、なるべく有名で権威とありがたみのある人に「言ってもらいたい」と思うのが人情だ。だから「正しさ」の定められた世界ではその必然として、若い書き手に仕事は回ってこない。
コロナ禍の最初期から例を出せば、「政治家がマスクをしています」「皇室もマスクをしています」「芸能人やインフルエンサーも」「放送中のキャスターも」……は、ニュースになり喝采を浴びる。でもあなたがマスクを着けても、誰も話題にしない。それと同じである。
とはいえ、どうせ言ってもらうなら「この人に」との期待を集める大物の著者は、ひと握りだ。彼らのキャパシティにも限界があるから、そこまではありがたみのない人にも書いて稼いでもらわないと、メディアの側は困ってしまう。
近日これは別のところで聞いて、暗い気持ちになったのだが、結果として最近の出版界には「焼畑農法」が広まっているらしい。
まだ十分社会に向けて発表できるだけの成果がなく、自身の思考をきちんと練り上げる前の状態の書き手(たとえば大学院生)をネットで見つけては、後で見たら恥ずかしくなるだろう内容でも「鬼才現わる!」と称して本にまとめてしまい、売るだけ売ってキャリアの面倒は見ないというわけだ。そうした方針を、なかば公言するような版元もある。