『論語』の「李氏第十六の五」に、「益者三楽(さんらく)、損者三楽。礼楽(れいがく)を節せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり」という孔子の言があります。之は「三種類の楽しみは有益で、三種類の楽しみは有害である。礼楽の楽しみ、他人の長所を語る楽しみ、多くの賢人と交わる楽しみ、これらは有益である。贅沢の楽しみ、遊蕩の楽しみ、飲み食いの楽しみ、これらは有害である」といった極当たり前の言葉です。また「賢友多きを楽しむ」とは、以前この「北尾吉孝日記」で『友を択ぶ』という中で御紹介した「益者三友」の一、「多聞(たもん)を友とする」(李氏第十六の四)に同じだと思います。
常に穏やかな人物であったと想像できる孔子も、例えば宰予という弟子が昼寝をしているのを見て、「朽木は雕(ほ)るべからず、糞土の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予に於いて何ぞ誅(せ)めん・・・腐った木に彫刻はできない。汚れた土塀は塗りかえできない。おまえのような男は叱る価値すらない」(公冶長第五の十)と、殆ど罵倒と言っても良い程の激しい言葉で叱責しています。「益者三楽、損者三楽」ということが宰予に向けられたものかは分かりませんが、「放蕩三昧していたら色々疎かになり碌な結果になりませんから、まともな道を歩んで行きなさい」と孔子は言っているのでしょう。その意味で「礼楽を節せんことを楽しみ」としているのは一つに、礼とは基本モラルの問題だからだと思います。