黒坂岳央です。

先日、小学校の給食で出たうずらの卵を詰まらせて死者が出たニュースは大変に心が痛い。自分にも同い年の子供がおり、まったく他人事に思えなかったからだ。

この件を受けて前橋市の小川晶市長は「事故が起きると止めてしまいがちだが、問題はうずらの卵ではなくしっかり咀嚼して飲み込むことだ」と述べた。SNSではこのニュースに対して賛同の声が多く見られた。

本稿はかなり挑戦的なタイトルを付けてしまったが、頭の良し悪しというより日本の文化的な事情に由来する問題だと思っている。もちろん全てとはいわない。だがその傾向はあると思っている。そしてこれは学校に限らず、企業などでも起きていることだ。

自分は純日本人で日本を強く愛する立場の者だが、それでも認識する課題について建設的意見を述べたい。

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とりあえず臭い物に蓋

日本は問題が起きると「根本的解決の代わりに、問題の起点に規制をかけて終わり」とする傾向がある。「臭いものに蓋をする」という言葉があるがまさにそうだ。理由はそれが最も頭を使わない手段であり、一番楽だからだ。

たとえば会社で大きな失敗をしてしまった人が「責任を取って自主的に退職する」という場面はよくある。外資系企業の同僚の外国人と雑談をした時にこの話題になり「ただの逃げだと思う。責任を取るなら失敗を成功にひっくり返す結果を出すべきでは?」という話になり、正論に感じた経験がある。何でもかんでも他の先進諸国に見習えなどと出羽守のつもりはないが、臭いものに蓋では根本解決にならないという指摘は正論に感じる。

件の給食ではまっさきにうずらの卵がやり玉に挙げられたが、過去にはこんにゃく入りゼリー誤飲が問題になったことがあった。だがこんにゃくゼリーより、遥かに事故件数を増やしている餅は一切規制も糾弾もされない。おかしな話だ。

問題が起きればとにかく規制、この1%の例外を潰すために99%の通常運用の利便性を著しく損なう対応は正しいのだろうか。事なかれ主義があらゆる場面での仕事の生産性を落とし、文化の発展を阻害していると感じる。根本的な問題解決をしたいのではなく、単にクレームを防ぎたいだけだ。コロナの透明アクリル板の非科学的な対応が疑われた時期があったが、あの対応にこそ問題解決能力が現れていると思っている。