今回は、アメリカの歴史の5回目です。

「代表なくして課税なし」をスローガンにイギリス本国への反発を強める北米植民地人ですが、ここから独立革命への動きが加速します。

「代表なくして課税なし」

直接、または代表をとおして自分たち自身の同意がなければ、いかなる税も課せられてはならないというのが、人民の自由に不可欠の条件である。 代表を送っていない本国議会による恣意的な課税は、植民地人が持つイギリス人としての固有の権利を侵害している

前回の記事はこちらです。

  1. ボストン茶会事件

    1770年、ボストンに駐留していたイギリス軍が民衆に発砲し5人が犠牲になるという「ボストン虐殺事件」がおこります。しかし詳細は不明であり、双方によりプロパガンダ合戦が繰り広げられました。タウンゼンド諸法は、茶税を残して撤廃されました。

    ボストン虐殺事件

    1773年、有名な「ボストン茶会事件」がおきます。

    経緯はこうです。

    苦境に陥っていた東インド会社の救済のため、イギリス議会は「茶税法」を制定し、東インド会社に茶の独占販売権を与え、茶を北米植民地に関税無しで直接販売することを認めました。

    当時の北米植民地で飲まれていた茶の90%は、オランダからの密輸品でした。

    イギリスの制定した「茶税法」により、イギリスの茶はオランダの茶(密輸品)よりも安価になりました。このことで、植民地の商人は、茶の販売網から締め出されることになったのです。

    怒った植民地の商人が、先住民に化けて、東インド会社の商品を積んだ船を襲い茶箱を海に投じる事件がおきました。

    これが「ボストン茶会事件」です。

    この事件は、植民地の一般の人の賛同を得ませんでした。茶を海に捨てるという行為は、茶の所有者に対しての私有財産権の侵害に当たったからです。ベンジャミン・フランクリンを始めとし、多くの植民地の人々は、茶の所有者に対して満額の賠償金を支払うべきだと考えました(支払われることはありませんでしたが)。

    ボストン茶会事件

  2. 第一次大陸会議

    1774年、ボストン茶会事件に激怒したイギリス本国議会は、「強圧的諸法(強制諸法)」という4本の法を制定します。イギリス本国は、ボストン港の閉鎖や植民地の自治権剥奪などの懲罰措置をとったのです。

    植民地側はこれらを「耐えがたき諸法」と総称し、自治の喪失という危機感を覚え反発を強めました。

    危機感の高まりの中、事態に北米植民地全体で対応すべく、1774年9月フィラデルフィラで第1回大陸会議が開催されます。これにはジョージア以外の12の植民地の代表が参集しました。

    「耐えがたき諸法」の撤廃を求める一方で、イギリス本国との和解の道も探りました。

    3. 独立戦争の始まり

    1775年4月マサチューセッツ湾植民地でレキシントン・コンコードの戦いで、植民地とイギリス本国との戦いが開始されました。

    1775年5月第2回大陸会議が開催されます。以後、常設機関となり、事実上、中央政府として機能し革命推進を担います。

    大陸会議はジョージ・ワシントンを大陸軍の総司令官に任命しました。ワシントンは大陸会議の権威を尊重し、文民統制の原則を守りつつ、民軍関係に心を砕きながら重責を果たしていきます。

    1775年7月、大陸会議は「武器を執る理由と必要の宣言」を発して自らの行動を正当化する一方、イギリス本国との和解の道を求めてジョージ3世への請願書(オリーブの枝請願)を採択します。

    しかしイギリス本国の態度は硬く、植民地は反乱状態にあるとの国王宣言が発せられました。

    ここにいたり、植民地人が抱いていたジョージ3世への期待も消え去り、「有益なる怠慢」を基調とする関係への回帰は困難だと認識が広がっていきます。