法律は基本的に人の自由度をある程度「限定」させることにあります。「限定」というのはネガティブな表現で「バランスと調和のとれた社会実現」と書けば前向きになりますが、実態は足かせを増やすのが法律です。何故かといえばルールを決めないと人々はバラバラな解釈のもと、それを権利とするからです。

それは確かに社会を改善するためには重要でありますが、同時にストレスフルなのです。この点を誰も指摘していないのです。住みにくくなり、仕事がしにくくなり、これだけコンピューター化が進んだ社会なのにパソコンを操作するだけでも面倒なルールが次々と設定され、好きにできることがどんどん狭められているのです。それでも我々の年齢ぐらいなら問題ないでしょう。なぜならそれなりに生きる術を知っているからです。ところが若い人、あるいは教育水準が十分ではない人には怒りでしかないのです。

グレタ嬢に賛同する若者もトランプ氏に熱狂する人々も同じなのです。不満の代弁をしてくれるのです。よってトランプ氏は社会秩序を揺るがすようなことを当たり前のようにしますが、アンチトランプの人もかつての絶対拒否反応から「困ったものだ!」というレベルに熱量が下がってきているのです。

ウクライナ戦争が始まった時には世界中の人が様々な声を上げ、意見をしました。が、イスラエルのガザ侵攻は声こそ上がるもののウクライナの時とはだいぶ違います。ましてやフーシ派の暴挙に対する英米を中心とする部隊の対抗についてはほとんど反対の声は聞こえません。ましてやイランとパキスタンの国境付近での小競り合いはそれ自体がほとんどの人に認知すらされていないのです。

これは人々の目線がグローバルから自己中心主義に変化してきているのだろうと推察しています。いわゆるミーイズムなのですが、20世紀に言われたミーイズムとはまた違ったテイストがあるように感じます。かつてのミーイズムには広がりがなかったのです。「私は私」で私は主張はすれども他者に同意を求めていなかったのです。ところが今は「私の声を聞いて!」なのです。賛同者を集め、もっと大きな声にすることを望んでいるのです。

自民党の派閥も同じで議員それぞれから私の声を聞いてもらうためには派閥やグループに所属し、皆で声を合わせることが必要なのです。

国際政治学者イアンブレマー氏は2024年の最大のリスクを「米国の敵は米国」としましたが、私はこの意味を自己の声を極大化し、対立構造を生み出す社会体質と理解しています。一方で法律という縛りがない社会を我々はもはや想像もできないし、そこに戻りたいとも思わでしょう。ストレスを溜めながらも「〇〇を規制する法律を作ったらどうか?」と多くの人が心の底に思っていることがごまんとあるのです。

20年後の社会は法律の縛りのみならず、行動監視され会社で社畜化ならぬ「国畜化」が進み、家族間も不信感に蓋をした仮面家族となるのでしょうか?これはオカルト映画よりも恐ろしい想像したくない社会であります。

では今日はこのぐらいで。

編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年2月1日の記事より転載させていただきました。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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