バチカンは2025年の「聖年」のテーマに「希望」を選んだ。確かに、私たちは「希望」に飢えている。コロナ・パンデミックで世界で700万人以上が犠牲となった。その直後、ロシアのウクライナ戦争が始まり、戦火は中東に飛び、イスラエルとパレスチナ自治区ガザのイスラム過激派組織「ハマス」との間で戦闘が始まり、レバノンに拡散し、中東全域を紛争に巻き込んでいる。紛争や戦争だけではない。世界至る所で貧富の格差は拡大する一方、情報は溢れ、心の安らぎを見出すことが容易ではなくなってきた。連帯、共存より、競争と奪い合いが繰り広げられ、相手を批判することが傾聴することより評価される。

私たちは今、持続的な「希望」を必要としている。閉塞感を乗り越え、明日に対する希望をどこに見つければいいのだろうか。激動の2024年はまもなく過ぎていく。25年の「聖年」の「聖なる戸」を開ければ、全く新しい世界が生まれてくる、ということはないだろう。だとしても、人間は、息を吸い、食事を摂取しないと生きていけないように、持続的な「希望」を必要としている。カトリック教会が25年周期で「聖年」を宣言し、過去を悔い改めて神への信仰に立ち返る儀式を挙行することは教会の知恵というより、人間が定期的に出発点に戻り、再スタートすることが必要であることを裏付けている。

ちなみに、ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、私たち人類を「神殺害の犯罪者」と言い切った。神を殺したことで人類が持続的な「希望」を失ってしまったとすれば、何はさておき「神」と和解し、「希望」を取り戻すべきだろう。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年12月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。