ダイヤモンド・オンラインの「【光る君へ】最終回のその後……道長の子孫・白河上皇の『院政』を彩った驚きの男女関係」がYahoo!ニュースにも転載された。
上皇たちによる院政が行われた場所として、前回は白河上皇が愛した左京区岡崎を『紫式部と武将たちの京都』(知恵の森文庫)から紹介したが、今回は鳥羽上皇が愛した鳥羽を案内する。
鳥羽上皇の母は藤原道長の叔父にあたり、存在感は薄かったが、道長の時代に長老として大臣を歴任し、太政大臣にまでなった公季の玄孫である。公季の曾孫である茂子が白河天皇の母であり、その兄の娘で堀河天皇の女御であった苡子が鳥羽天皇を生んだ。
さらに、苡子の兄の娘である璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の皇后となり、崇徳天皇や後白河天皇を生んだが、崇徳天皇については鳥羽天皇の祖父である白河上皇が実父であるという噂がある。
角田文衛は『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』において、待賢門院璋子の生理周期と行動や滞在場所から、崇徳天皇は白河上皇の子であることを証明したと主張しているが、前提が割り切りすぎているため反対論も存在する。
白河上皇や鳥羽上皇が愛したのが鳥羽の離宮である。鳥羽は名神高速道路京都南インターチェンジの周辺に位置し、北側は南区上鳥羽、南側は伏見区下鳥羽である。院政期に栄えたのは南鳥羽である。
平安時代、この地域には巨椋池が広がり、鴨川や桂川が流れ込んでいた。大きな船は山崎あたりで止まるが、小さい船ならここまで遡れる。また、朱雀大路の延長である鳥羽作道の終点であり、港湾都市としても適していた。さらに、狩猟や月見にも好条件であった。
「鳥羽」という地名は全国各地に見られるが、谷の入り口や港、渡し場を意味するなど諸説がある。漢字は当て字であり、特に意味はない。
また、平安京より温暖であった。京都では北と南で寒暖の差が顕著であり、鳥羽は熊野詣での出発地としても便利で、ここで一週間ほど潔斎してから出発していた。