「奥行き」を持たせた毛利元就の組織づくり
元就は没74歳と、戦国時代の織田信長の「人生50年」という言葉に代表される寿命と比べるとかなり長寿でした。ですが、元就は49歳の時に家督を長男の隆元に譲り隠居しています。
3人の息子がそれぞれ隆元は毛利家、元春は吉川家、隆景は早川家のトップとなり、毛利家を中心とした所謂「両川(吉川 早川)体制」が敷かれたのです。そして、元就はその奥に引っ込みそれらを統括していました。
この体制について元就が書き示したのが三子教訓状といい、後の三本の矢のエピソードの元ネタになっています。
そこには毛利の名が絶えることが無い様に、早川、吉川は毛利に仕え、隆元は元春、隆景に対して指示を出す様に、つまり揉めたら最終的な意思決定は隆元がしなさい、と明文化しています。
つまり、社長は隆元。元春と隆景は事業部長と任命して、自身は会長となるということです。自らが奥に引っ込むことで、権限を明確に与え、息子たちの成長を促し、一族の繫栄を未来永劫にさせていこうとしたのです。
トップが奥にいき、組織に奥行きを持たせていく。徳川家の明確なヒエラルヒー構造もここに由来していると考えられます。
しかし、元就の想い通りにはいかず、早く隆元に任せたかったのですが、隆元は自信が無いと縋りつき、結局は元就が社長業をすることになりました。
そして不幸なことに隆元が41歳でこの世を去ると、孫の輝元が家督を継承するのですが、輝元に「自分では力不足だ」と駄々をこねられ最後まで元就自身が執政を行っていました。
この事が、元就亡き後の毛利家の衰退に大きな原因になったと想像できるでしょう。輝元の時代に、徳川家康により、かつては広大だった毛利家の領土は山口県のみと大幅に縮小されてしまいます。
想像ですが元就は父親に早くに亡くなられ苦労した経験が、子供たちに対しての甘さになったのかもしれません。苦労した経験が自分を育てたはずなのに皮肉ですね。
毛利元就のマネジメント元就は小さな国を多数まとめて一つにまとめ上げて、小さな一国の領主から「戦国大名」になりました。当時の室町幕府や朝廷からもお墨付きをもらい、今でいうと「一部上場企業」になった訳です。
元就時代の毛利家の特徴は内部での大きなトラブルやクーデターが戦国武将にしては他家と比べて少ないことです。
ですので、元就は人心掌握に優れたリーダーとも言われています。
確かに、人間らしいマネジメントの逸話も多くあります。
こんな話があります。
坂広秀が元就の実弟相合元綱を擁してクーデターを起こし失敗した際、親族であった桂元澄が責任をとって自刃しようとしました。
当時の君主は自らの命を絶つ引き換えに、一族や部下の安全を確保してもらうために責任をとり自刃するのが一般的でした。しかし、元就は急いで自ら丸腰で出向き、敵意の無いことを示し、説得したのです。
ただ、その一方で、規律を守らない相手に対しては果断さも見せています。
過去に恨みもある井上氏に対しては、躊躇なく粛清。クーデターの旗印となった実弟の元綱も容赦なく殺害するなど、部下から見ると背筋が凍るような一面も持っています。
元就の部下に対する取り組みで特徴的なものがあります。
それは、正月の挨拶に大小限らず全ての家臣に来させていたというものです。多くの戦国大名は重臣と呼ばれる部下としかお目通りしません。しかし元就は実に正月の間10日間程かけて全ての家臣との挨拶をこなしていたのです。
なんて、家臣想いなのだろうか、とも取れますが、特に下級の家臣はお殿様に会いに行く等一大事なわけです。
社長面談と一緒で、出来るなら行きたくない・・・そんな気持ちにもなったとも想像できます。ましてや当時の情報流通の状況を鑑みての「うちの殿様は毎年挨拶させてくれんだよ!」「へー、そいつは良いな。俺もその殿様に着こうかな。」なんて会話があったとは想像しにくいですよね。
それぞれその日の為に身なりを整え、献上物を持ち、報告と次の目標、抱負をしっかり考えてその日を迎えることでしょう。当時の移動手段を考えても容易ではない手間と苦労があったと想像できます。
同じようなものに江戸時代の参勤交代もあたると考えられます。
つまり、年に一回の報告を上げに行くことで主のことを考えざる得ない状況を作れる訳です。嫌だなと思いつつもいざ行ってお褒めの言葉一つでももらえれば来年もまた恥ずかしくない報告を持って行こうという気持ちになり、その積み重ねで離反することが考えにくくなるのでしょう。
定期ミーティングを徹底できない会社では、急成長中の繁忙で会議が行われない。そして繁忙期の一つの波が去ると疲弊し社員が離脱していく。
毎週のミーティングは面倒くさいし、悪い報告があるときは参加したくないものですが、そこで部下から上司に会いに行き報告をさせる。上司がフィードバックする。この積み重ねが組織内のトラブルや離反、離脱を防ぐことになります。
内部での問題が少なかったことには「規律」を徹底し、部下から定時報告をさせる元就のマネジメントが大きく影響しています。
毛利元就から学ぶリーダーのあり方厳島の戦い等の奇襲作戦など緻密な策略、作戦が語られることの多い毛利元就ですが、その行動や残された文章などからは、組織運営の原理原則を理解し実践していたことが分かります。
残念なことに息子や孫たちはそこから学ばず、偉大な君主元就の力にすがることが多く、カリスマを失った組織は一気に求心力を失い勢力を奪われて行きました。一方で徳川家康はそこから学び260年という長い時代を平定する江戸幕府という組織を作り上げます。
リーダーは部下に責任と権限を与えそこに任せて自分は一歩引く。
そして組織内の規律がしっかり保たれているか?規律を守れないものは躊躇なくそれを正すこと。
部下からしっかり報告をさせて、与えた責任を果たすことを定期的に約束することが重要です。急成長する組織だからこそそれを運営する為に歴史の偉大な先輩からしっかり学ぶことが必要です。
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羽石 晋(Susumu Haneishi) 上席コンサルタント コンサルティング部 課長。埼玉大学教育学部を卒業後、人材サービス企業のランスタッド株式会社に入社。支店長職を経て、関西中部エリア、中四国エリアのエリアマネージャー、再就職支援部部長を歴任し、識学に入社。
編集部より:この記事は株式会社識学『識学総研』2022年6月17日のエントリーより転載させていただきました。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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